世界で、日本で......留美子が出会った人たち (2)


(2)ビデオボックスのラウンジが女装子の集いの場 2007. 3.13up


 性転換して、24時間のすべてを逆の性で生きていく・・・それだけが「性を変えて生きる」という人ではない。
 性同一性障害という名称で、性を変えて生きていく人たちに光が当てられるようになったが、私たちの社会には、「男ときどき女」というように、普段は男性で仕事などを行い、ときどき(たとえば週に1度だとか)女性として過ごす時間を持つという人もしっかりと存在している。
 ちょっと「高尚」にいえばトランスジェンダーとかトランスヴェスタイトなどというのだが、ありていには「女装子(じょそうっこ)」だとか女装者などと呼ばれている人たちだ。
 性同一性障害を自認している人の中には、「自分たちは女装しているわけではない.本来の自分になっているのだ」と言い、女装者と自分たち(性同一性障害者)とはちがう、などと言いつのる人たちもいる。嘆かわしい。なんと偏狭な心の持ち主だろうか。
 それぞれの人がおかれた環境、自分の体の性と心の性の違和感に悩み、それをどのようにして解消しようとするのか、という手段には多様なあり方が存在するということに思いを馳せてほしい。
 性転換して性器を変えることで違和感を緩和しようとする人もいるが、「男ときどき女」として、「女性」としての時間を持つことで、なんとか心の平穏を取り戻そうと努力している人たちもいるということ。緩和のしかたはまさに多様なのだ。
 医学は、これまでのところ、もっぱら、性転換をする人たちにかぎってコンタクトをとってきた。

 逆に言うと、当事者でも性転換を当面の目的としていない人は医者の門をたたくこともないため、こういった人たちと医者とが接触する機会がなかったともいえるだろう。医者の門をたたき、医師が定めたコースに乗って性転換を行ったとき、そして、子どもがいないとか結婚していないなどの「高い」ハードルを越えたばあいにかぎって、男性から女性(女性から男性)への戸籍の変更が認められるようになったのだが、こういったコースに乗らない、乗りえない人たちも相当な数いるということも、やはりわかっていただきたいと思う。
 こういった人たちは、日頃は「男性」として生活しているものの、世間で言う「男性性」に必ずしもなじめているというわけではない。「男」か「女」かで2つに二分した性別二元制の社会のあり方に苦痛を感じている人たちも決して少なくはない、ということも知ってほしい。
 〈手術して戸籍の性別を変えれば別の性で生きていくことができるわけだから、それで性同一性障害の問題は解決だ〉とはならないということ。このところを、「ジェンダーフリーをバッシングしているような政治家やオピニオンリーダーはよくみてほしい。
 あなたが「ジェンダーフリー」を嫌いなのは、好きずきだからそれはいい。だけど、性別二元制に苦痛を感じて生きている人たちのことに少しでいいから想像力をめぐらしてほしい。自分と同様に、同じ価値を持った他人がいるということに思いをめぐらしてほしい。そして、そういう思いを馳せることができる人が「いじめ」の心を脱却することができるのだと思う。だって、「いじめ」は、他者を自分と同じ価値を持つ人間だとは認めないことからはじまるのだから。
※ジェンダーフリーの意味を「男らしさ/女らしさをなくして中性にしてしまう」などと解説している政治家がいるが、それはデマをとばしているということを知っておいてほしい.ジェンダーフリーを言っている人たちは、男らしさ/女らしさを少しも否定していない.ただ、男性だからといって男らしさを強いられることに苦痛を感じる人がいたとき、そういう人でも充実した人生を送ることができるように、決められた「らしさ」にとらわれないで生きていくことも認めあい受け入れていこうよ、というのが本来のジェンダーフリーの考え方なのだ.デマを飛ばしている政治家は、そのことを知っているくせに(知らないとしたらあまりにも無知.政治家なんかやめてほしい)、あえて意味をねじまげて攻撃する.私はジェンダーフリーを支持するが、しかし、「男らしさ/女らしさをなくす」ことを目的とすることは考えてもいない.だって、私自身が「女らしさ」をもとめたいという気持ちがあるのだから.

 「男ときどき女」・・・普段は男性で生活していて、週末などに「女性」としての時間を持つといった人たちが集う場所。そのひとつが、ビデオボックスのラウンジである。