気のあった女性教員の仲間で、X'masパーティ
私が勤務する地域のいくつかの高校の女性教員で、気のあった仲間が集ってX'masパーティが開かれた(2001.12.23)。
このときは「女性」としての宮崎留美子でいるのだが、日常的には男モードで生活せざるをえない私である。本当に「女性」としてとけ込めるのだろうかという不安はもちろんあった。ただ、女性どうしでの飲み会は、今年になってから出る機会を得て、今回で4回目ということもあり、たぶんだいじょうぶだろうという気持ちではあった。
私自身、お酒は弱いこともあるのだが、同僚の男性教員とはあまり飲みに行かない。男性教員どうしで飲みにいっても、話題が面白くないのである。いわゆる「男性どうし」としての話には、表面上は合わせているものの、心から楽しんだことはない。だから、2次会に出ることはまずなかった。
前回の女性どうしでの飲み会のとき、3次会までつきあった自分に驚いた。女性どうしで話す会話が楽しくてたまらないのだ。日常の男性としての自分のときには解放できない何かを、女性どうしでの飲み会のときには解放できることに気づいた。
自分こそは真のGIDだという人たちが、いとも簡単に「私は、心は女性です」と言う。心が女性とか男性とか、そう簡単に言えることなのだろうかと、常々疑問には思っているのだが、本人がそう言うからとくに否定することはない。
自分のことを考えたとき、「心は女性です」というのは簡単だ。しかし、女性という何らかの印があるわけではない。客観的な何ものかがあるわけではない。だから、私は簡単には言わない。でも、女性どうしで語りあえるときの解放感は、これは、男性教員たちと飲むときには感じなかったこと、それだけは言えるようだ。さて、一緒に写っている女性教員は、みなさん、教職員組合の女性部運動に関わっておられる方がたくさんいらっしゃる。女性部長に立候補された方も何人もいる。ありていにいえば、写っている女性のみなさんはフェミニストの集団だともいえるのだが、とくに気負っているわけではない。
フェミニストの女性というと、口角泡を飛ばして男性を糾弾する...と、思われるかもしれない。しかしこれは全くの誤解だ。お化粧の話もあれば、料理の話もある、すてきな置物のことについてうんちくを傾けることもある。普通の女性となんら変わることはない。ただ、自分たち女性の権利が侵されるとき、女性への抑圧があるとき、セクハラに対してまともな対応がなされないとき、このようなとき彼女たちは怒る。人権侵害を受けて泣き寝入りはしない。自分の人間性をかけてたたかう。
これって、実は、とても人間的なことではないのだろうか。
男性支配の社会の中で、自由に羽ばたけず自分を殺して生きていかねばならなかった女性の歴史は長い。抑圧され苦悩していることだけを言うつもりはない。「か弱い女性」という女性の立場を逆手にとり、あるいは利用し、男性を翻弄することもあった。一方、男性はというと、「男の沽券」「男の甲斐性」のタテマエのもと、無理して自分をビッグに見せなければならないつらさをも持っていた。
社会が要請している女性の役割、男性の役割に居づらい人たちは、社会のなかで毎日を生きていくのすらつらくなる。ここの集まった女性たちは、決められた女性としての役割内で収まらず、自分らしく生きていきたい人たちばかりだといってもよい。そして、私はというと、戸籍上の性でいることに窮屈さを感じ逆の性で生きていきたいと感じているということでは、生物学的な性の枠組みに規定されて社会的性役割を生きることを拒否したいという意味で同一だ。もちろん方向性は異なっている。女性の性役割から脱皮したいという女性の面々と、女性の性役割にどっぷりと浸りたいという私。方向性は違うのだが、生物学的な性にジェンダーが固定されることを拒否するという意味では共通点がある。自分たち女性の人権をはっきりともの申していくという人たちは、いろいろな生き方に許容的になる。いろいろな生き方をありのまま受け入れようとする。固定的な観念にとらわれることが少ない。トランスジェンダーの私を、なんの違和感もなく受け入れてくれ、「女性の一員」としてその場にいることが何の不自然でもなかったように感じた。
しっかりと、自分の生き方を主張したたかっている女性は、実は、ちがう価値観や生き方に対してより柔軟なのだと思う。自分を見つめ直すことをしないで、人権侵害があっても鈍感で、自分への抑圧にも無頓着であるとき、それは、この社会が「常識(カッコつき)」としてもっている価値観にどっぷりと浸っている場合が多い。そういう女性は、実は、少しも柔軟になっていないのだと思う。私と出会っても違和感なく受け入れてくれるかどうか、はなはだ心許ない。
ともあれ、トランスジェンダーである私を最も違和感なく受け入れてくれたのが、フェミニストと言われる女性たちであったことは、実に興味深い。
この人たちが、今後の教職員組合の女性部運動を担っていけるようになれば、私たちセクシュアルマイノリティとの連携ももっとすすんでいくのかもしれない。