2004夏 ヨーロッパの過去と現実をみる(3)

アウシュビッツを見学し考え込む

 エッセイ「アウシュビッツを見て考えさせられたこと」と連動した企画です。
 エッセイの方は、アウシュビッツを見学し、私が感じたこと思ったことを綴ったものですが、紀行記の方は、写真を中心に掲載しています。

 アウシュビッツ。ポーランドではオシフィエンチムという地名になるのですが、ポーランドの古都クラクフからバスないしは列車で100分のところに位置します。クラクフは、ワルシャワから2時間半のところにありますので、日本からは、なかなか行きづらいところですね。
 左の写真は、第2アウシュビッツと言われているビルケナウ強制収容所の入口とそこへの線路の引き込み線です。収容者は、どんな思いでここを通ったのでしょうか。


(写真左上)アウシュビッツの入口です。「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」との文字が掲げられています。収容者たちは、どういう思いでここをくぐったのでしょうか。
(写真右上)収容所内のポプラ並木が天を突くように伸びています。赤煉瓦づくりの宿舎が規則正しく並んでいる光景で、ポプラ並木の緑と煉瓦の赤の配色がなかなか美しいのですが、60年前は、ここは、絶滅収容所だったのです。

 強制収容されたのはユダヤ人ばかりではありません。あまり知られていないことですが、右のピンクの逆三角形を見てください。「HOMOSEXUALS」と書かれています。ピンクトライアングルといわれているマークで、同性愛者を意味しています。ナチスドイツの時代には、同性愛者も、国家に災いをもたらす者として収容所に送られることになったのです。同性愛と性同一性障害の区別などない時代ですから、その時代にドイツにいたとしたら、私たちも収容所送りになったにちがいありません。

(写真左上)おびただしい靴の山。殺されていった収容者たちの遺品だということを考えると、そのすさまじさがわかる
(写真右上)トイレに仕切はない。トイレまでプライバシーはなかった。こういうところでトイレをすることを考えたらどう思われますか
(写真右)こちらはまだひどい。こちらは、第2アウシュビッツのビルケナウの方であるが、トイレの穴があるだけ。証言によると(「キティ、アウシュビッツに帰る」というドキュメンタリー番組)、1つの穴に3人が一緒に用を足したという。そのすさまじさは、聞いていて耳を覆うほど。しかも拭くためのペーパーなどない。糞尿まみれの生活だったという。私が見た範囲では、アウシュビッツよりビルケナウの方が、よりすさまじかったような印象を受けた。

(写真左上)アウシュビッツ強制収容所の女性囚人者たち。これだけ栄養失調でガリガリになっているのを見るのはつらい
(写真右上)パッと見た目には普通の布。しかし、これは、殺されたユダヤ人をはじめとする収容者の髪の毛で織られたものだと知ると、その狂気が伝わってくる。ある方向性を「正しい」と思いこんでしまったときには、こういうことも狂気だとは思わなくなってしまうのかもしれない。自分たちがやっていることを「ひっょとしたらちがっているのかもしれない」というような自分の行動への問いかけを、常に忘れてはならないと思う。

(写真左上)有刺鉄線が二重に張り巡らされている。鉄線の柱に碍子が見えると思うが、これは、鉄線に高圧電流が流れていたことを示している。
(写真右上)
「死の壁」と呼ばれている。宿舎棟の間につくられている。この壁を背にして銃殺が行われた。今でも花が手向けられている。

 左の写真は、絞首して殺害した跡である。この絞首台の、向かって左側に、死体焼却所がある。
 アウシュビッツの見学ルート順からいくと、これを見るのはあとの方になる。最初に見ていたら、これだって、けっこうショックをうけるわけだが、衝撃を受ける展示物を、これでもかこれでもかと見せつけられたあとだけに、私自身の感覚も麻痺してしまっている。絞首台を見る頃には、「この程度の殺人用具」では、ショックを受けなくなってしまっている自分がいた。
 それほどまでに、虐殺の生々しさの痕跡を見せつけられたということだった。
 絞首台は、アウシュビッツ強制収容所内の端にあるため、このあたりは、見学人はまばらになっていた。


 アウシュビッツから2kmほど離れたところに、ビルケナウの強制収容所跡がある。両方の施設間は無料のシャトルバスで結ばれている(ただし1時間に1本程度、歩いても30分もあれば行けるかと思う)。こちらは、アウシュビッツよりもさらに広い。冒頭の写真の鉄道の引き込み線は、ここビルケナウの場所にある。ここを、第2アウシュビッツとも呼んでいるらしい。
 収容所内はとても広いためかなり歩くことになる。平和な今は、ヨーロッパの夏の柔らかな陽差しが降りそそぐのどかなところなのだが、やはりここにも、すさまじい虐殺の跡があった。
 今は、バラックの宿舎は、おおかたはなくなっていて、土台と暖炉の跡だけが残っている。

(写真左上)ビルケナウ強制収容所の施設。三段になっている収容者のベッドである。同時に、自分のスペースであるわけだが、一段に8人が寝ていたという。これはストロボを焚いて撮影しているので、これだけの明るさがあるように見えるが、実際はもっと薄暗い。明かりとりの窓は1つしかない。夜は闇だったという。このようなところに収容され、明日への希望をもつことができず、高圧の有刺鉄線に、自ら飛び込み自殺していった人も多かったという。
(写真右上)同じくビルケナウ。鉄道で連れてこられたユダヤ人その他(政治犯、同性愛者など)の収容者は、働ける者とそうでない者に選別され、そうではない者はガス室送りとなったという。送り込まれてきた70%はガス室送りになったというが、そのガス室があったところと、焼却所の跡である。ガス室には、屋根の方に毒ガス(チクロンB)を投与する挿入口があった。終戦間近、ソ連軍が近づいてきたとき、ナチスは、犯罪の証拠を隠すために、こういった棟に火をつけて燃やしてしまったという。