No.115 いろいろな女装者と出会うことで見えてきたこと
               

 ゆきこさん(左写真の真ん中の方)は、女装者が集うある場所の常連さんだ。ここに集う女装者たちにいろいろとアドバイスをされる、いわば「この道のベテラン」なのだと思う。この場所で自分の性別違和感を癒している。
 この方もそうだが、写真には写っていない他の女装者も、普段は「男性」として仕事をし、なかには結婚生活を送っている方も多い。結婚されている方の場合、妻から「やめてほしい」「離婚だ」などと家庭争議の元になることもしばしば。私もそうだった。

もちろん社会人としてのリスクも大きい。
 それでもやめられない。それはこのようにしないと自分の心の安定が保てないからだ。心ない一部のGID(性同一性障害)の人たちからは「この人たちはヘンタイだ、自分たちとはちがう」などの言葉を投げつける人もいる。
 でも私はいいたい。こんな人たちと語りあうたび、GIDと自分で言っている人たちとの共通点が多くあることを。だいたい、分けて考えようとするところに多くの無理がある。
 「gid.jp」という当事者の運動団体がある。戸籍の性別を変更できるようにする法律の成立に尽力されるなど立派な団体だと思っている。しかしそういう団体の人たちでも、ここで紹介している人たちに対しての偏見があるから、人から偏見をなくしていくことの難しさを感じてしまう。
 「GID(性同一性障害)の人はこうならざるを得なくてなっている形なので、なんとかしてあげないといけない」けれども、トランスジェンダー(ここで紹介している女装者を含む)に対しては、「トランスジェンダーの人は自分の意思でこうしたいからしてるというのは(生じる結果は)ある意味自己責任」(※2008.5.29 NONFIXという番組でのgid.jpの代表者の発言 私のホームページのエッセイコーナーNo.113に詳細あり)などの発言は、やはり偏見にもとづいているのだと思う。gid.jpの代表の方は聡明な方だと推察しているので、この点に関してはもっと多様なあり方の人たちのことを学んでほしいし、できれば再認識をもとめたいと思う。
 精神科医などの医療関係者でも、こういった女装者の場合、性転換手術などにまではすすまないこともあって、したがって、精神科医の門をくぐる必要もないことから、けっこうこういった人たちのことには疎い面がある。
 性教育や人権を考える場面でもまだまだだ。精神科医に行きホルモン療法や性転換手術を行い、戸籍の性別を変えているような人についてをターゲットとする風潮があって、そのような人たちの話を聞こうということは、いくらかはありえるようになった。もちろん喜ばしいことだ。しかしそこで止まってしまっているのではないだろうか。
 2007年夏、札幌で開かれた「人間と性教育研究協議会(性教協)」に「メンズスカート」の分科会があった。
 性同一性障害や同性愛といったテーマでの、性と人権を語る場面は、最近はいろんなところでなされるようになったが、メンズスカートのことをとりあげるのはかなり珍しい。ジェンダーと衣服のからみでとりあげられていたようだ。だがそれだけではないと思っている。メンズスカートの実践者は、単に、既存の男らしさをはみ出したファッションを実行するというだけにとどまらないように思う。女性でありたいと思うからスカートをはいているのではなく、スカートのファッションが好きだからはいているというのだが、話のなかで、「男性であること」への違和感が垣間見えたような気がした。ご自身は「女性になりたい」と考えてはいないということであっても、既存の男性性に違和感を感じるような「性のゆらぎ」があると、私は思った。
この言葉は、トランスジェンダーにかかわる社会学の研究者である三橋順子氏の造語.この方からは最近はこの言葉を聞くことがなくなったが、私は大事な概念として照射し再評価したいと思っている
 メンズスカートの実践者と、上で紹介した女装者、そして性同一性障害という人たち。そんな簡単に線引きができるのか。性同一性障害の人であっても、みんなが性別適合手術(性転換手術)をしているわけではない。生物学的な体の性が男性であれば、性器の形状も含めて、その人は依然として男性の体でいることになる。メンズスカートの実践者、そして女装者も、男性の体だ。どこがちがうのか? 
 心がちがうという。ちょっと待ってほしい。「心」なんて、そう簡単に他者にわかるのか。「心」をはっきりと分析できるのか。犯罪容疑者の精神鑑定のとき、その道でも著名な精神科医が鑑定するのだが、鑑定者によってまったく逆の判断を下すことがあることを、私たちはしばしば耳にする。現在の科学では、「心」を一義的に分析することなどできてはいないのだ。
 曖昧なことしかわかっていないなかで、「あなたと私はちがう」などと簡単に言ってほしくはない。
 ちがうことを問題にしているのではない。「ちがう」のは当たり前で、100人いれば100とおりの「ちがい」がある。しかし、「あなたと私はちがう」というとき、そこに線引きの思想が潜んでいるからこそ、私は問題だと言っているのだ。ひとりひとりが「ちがい」を持っているとともに、また多くの共通項も持っている。少なくとも、「GIDの人は・・・・なんとかしてあげないといけない」が「トランスジェンダーの人は・・・・ある意味自己責任」という見方と関係してくるからこそ、私は「線引きの思想」は大問題だといいたいのだ。
 線引きの思想は百害あって一利なし。必要なのは「わかりあうこと」。あなたと私は「隣人」なのだという思想を持つこと。
 ここから、共に生きる社会が展望ははじまる。「共生社会」という言葉をよく聞くようになった昨今だが、線引きの思想は共生社会には有害だ。それぞれの「ちがい」をしっかりと認識するのはあたりまえだが、「ちがい」は線引きの出発点ではない。「ちがい」を共に生きる社会の出発点として、自分とちがう他者を「わかろう」とする想像力につなげていくとき、そこから本物の共生社会が生まれるのだと思う。