No.113 gid.jpの山本蘭さんにアドバイス
               


←左の4枚の写真は、2008年5月29日にフジテレビ系列で放映された「NONFIX」のなかの該当部分を画面キャプチャーしたもの.画面の方は山本蘭さん.

 山本蘭さん。gid.jp という性同一性障害を持つ人たちが住みよい社会になるべく運動をしている団体を率いておられ、性同一性障害者の戸籍の性別変更のことでは、「子なし要件」をなくすことに尽力された方でもあるようで、なかなか立派だと思っている方だ。
 ただ、2008年5月29日にフジテレビ系列で放映された「NONFIX」で話された内容については、トランスジェンダーに対して、ちょっと認識不足があるように思った。これは決して、山本蘭さんを批判しようとしているのではない。ご自分を性同一性障害だとしている方がトランスジェンダーに対して、そこに認識不足があったとしても何もおかしいことはないし悪いことでもない。私だって、自分たちのあり方以外については多くの認識不足はあるだろうと思っているから、お互い様としか言えないと思う。
 だから、このページでは、山本蘭さんに、「トランスジェンダーへの認識は、そりゃちょっとちがうよ」とでもいったアドバイスというふうに受けとってもらえれば幸いだ。
 gid.jp という立派な団体を率いておられる方で、また、こういった性の問題についても深遠な知識を有しておられると思うので、素直に聞いていただけたらうれしい。

 私が、これはちょっとちがうんじゃないかい、と思ったのは、テレビで放映された左のシーンだ。
 トランスジェンダーの人をどう思いますかという問いに対して、「GID(性同一性障害)の人はこうならざるを得なくてなっている形なので、なんとかしてあげないといけない」というふうに、GIDの人たちへの言葉を語る一方で、トランスジェンダーに対しては、「トランスジェンダーの人は自分の意思でこうしたいからしてるというのは(生じる結果は)ある意味自己責任」と、ちょっと突き放したような言い方をしている部分だ。
 私は、トランスジェンダーが「自分の意思でこうしたい」という選択をしているというところが、認識不足なのではないかとアドバイスしたいという主旨なのだ。

 インタビューを聞くかぎりは、山本蘭さんは、性同一性障害の人とトランスジェンダーをちがったあり方のように受けとめているフシがあるが、ここはやはりちがう。人の性のあり方を二元的にわけて考えるところに無理があると思っている。もっとも、これは、トランスジェンダーの側からも、性同一性障害とことさらに「ちがう」みたいなことを吹聴する人たちがいることにもいくらかの責任はあるかとは思っている。
 性同一性障害は診断名だから、その人たちは「病気」であり、トランスジェンダーは生き方なのだから、ありようがちがう。こんな議論もあるが・・・馬鹿なことを言うでない。現時点では、性同一性障害を「病気」としたほうが本人にとっても都合がいいし、性別適合手術(性転換手術)を行う理由もつく。病気としなければ現時点では手術が可能とならず結果として救われない、という背景があるために、病気としてのポジションを与えているということを理解する必要がある。
 病気と診断し認定する以上は、なんらかの基準を設けることは当然だ。ものごとを定義するという行為の宿命でもある。グラデーション的に変化していく性のありようのなかで、ある基準を超えた場合にのみ性同一性障害という診断がなされる。線引きの向こう側とこちら側のぎりぎりにいる2人がいたとして、そこにどれほどの差異を見出すことができようか。しかし、基準を超えていたら性同一性障害という「病気」とされる。2つのあり方を峻別して語ろうというのは、よく考えると無理がある。
 ただ、この話になると、一般の人が興味を抱くこともないたこつぼ的な議論になっていくので、このあたりでやめる。

 経済学部に行こうか、それとも工学部にしようか。数学は得意だし社会的な関心もある。さてさて困った。・・・このような選択肢があったとき、たとえば、経済学部を選ぶというのは、これは自分の意思で選択するとでもいえるだろう。その結果、経済学部出身では就職が厳しかったとしても、それは自己責任だといえるかもしれない。しかし、トランスジェンダーがこうしたいああしたいというとき、それを「自分の意思」だと突き放すのは認識不足としかいいようがない。

 そりゃ、トランスジェンダーの概念はあまりにも広いので、なかには、人生をエンジョイするため、とくに性別違和感がないにもかかわらず、性を変えた生き方を選択する人もいるかもしれない。私は寡聞にしてそういう人は知らないが。
 トランスジェンダーとて、長い期間にわたる性の悩みがあるんですよ。今回のNONFIXの主人公だった後藤さんも、それはそれは悩みながら、自分がどのように生きていったらいいかを考えようとしていたじゃないですか。
 私もそうだ。山本さんがいうように、自分の意思でこうしたいということで女装しているのだと思っていた時期もあった。だから、結婚すれば、そういう女装なんかやめることができるだろうと考えた。女装する自分か、結婚して男性として生きるのかという選択肢が私の前にあるのだと思っていた。もう20年も前のことだ。当時は、トランスジェンダーはおろか性同一性障害という言葉も知らなかった。世界は「男」と「女」という二元制で成り立っていると考えていたし、ジェンダーなんて概念も知らなかった。私は「結婚」という選択肢を選ぶことで女装という「ヘンタイ」の道を絶てると思い込んだ。意思によって解決できると考えたのだった。 しかし、男性として家庭を担っていくということは無理だったということは、結婚後まもなくして認識させられることになったのだ。私は自分のことを「こうならざるを得なくなっている形」だと思っている。山本蘭さんのように「性転換」ではないかもしれないが「女装」というあり方は、私にとっては「こうならざるを得なくなっている形」なのだ。

↑小石川後楽園にて
私はトランスジェンダーかもしれない(女装者、ニューハーフであってもいいし、はたまた性同一性障害の人でもかまわない.そんな名称など何でもいいと思っているし、分けて考えること自体がナンセンスだと思っている)。ところで、私と山本蘭さんとの間で、なにか本質的にちがいがあると考えるのだろうか。自己の性別違和感・苦悩をどのようにしたら軽減できるのかという方向性ではちがいがあるだろう。あたりまえだ、性の問題は一人として同じではない。だからといって「むこうとこちらはちがう」と分けて考えることに意味があるのかということ。ちがっている点では、苦悩するひとりひとりに合った解決法をそれぞれに考えていくことは当然だ。それが大切なことであって、2元的、二項対立的なもののみかたは少しもプラスにはならないと、私は思う。2つに分けて、一方を「なんとかしてあげないといけない」として、他方を「ある意味自己責任」と突き放した見方はいただけない。

 であれば、性同一性障害の人が「こうならざるを得なくなっている形」なので「なんとかしてあげないといけない」と主張されるのであれば、トランスジェンダーであっても「こうならざるを得なくなっている形」なのだから、なんとかしてもらわなくては困る、と主張することのどこがまちがっているだろうか。
 まさか、山本蘭さんのような聡明な方が、性同一性障害の人だけの特権論をふりかざすようなことはありえないだろう。匿名掲示板諸氏のなかには、特権論まがいの馬鹿げた理屈を言う人もいるが、山本蘭さんがそういう意見だとはこれっぽっちも考えていない。
 テレビ放映のような発言が出たのは、トランスジェンダーの生き方というのは、(選択可能ななかから)自分の意思で選びとっていると思い込んでいるところに、トランスジェンダーであれば「ある意味自己責任」という結論を導き出した原因があるのだと思う。もっとも、これは、トランスジェンダー側の一部の人でも、ことさらに、性同一性障害の人と自分たちとは、きっちりと峻別していこう、と受けとられる発言をしていることなども関係があるかもしれない。そういった方の意見は意見として受けとめるが、トランスジェンダーの当事者のひとりである私は、別の意見として「それはちょっとちがうんじゃないかい」と言っておきたいと思う。私の意見が絶対的に正しいということではないと同様に、別の方の見解がスタンダードというわけでもない。どういう考え方が妥当なのかは、これはときがたち、歴史の審判に委ねる以外にない。

 山本蘭さんには、ぜひ、私のこの意見や気持ちを参考にして、もう一度、ご自分の見解を再構成していただけないかと願っている。

【補足】
 いったい、健康体の人と病気の人と、2元的に峻別できるのだろうか。癌だって、健康体の人にも癌細胞は常に生じているという。もっとも、その細胞を駆逐しているのが健康体ともいえるが。癌細胞の有無で癌という病気か、それとも健康体であるかを決めることは無理である。風邪であることと風邪ではないこととを峻別できるだろうか。実態は、グラデーション的に続く体の変化のうち、ある基準を超えていたら「病気」だとみなす、というのが実態ではないだろうか。薬を投与するという処置をする場合には、グラデーション的な位置づけのなかで、ある患者を「病気」だと分けていかなければならないという現実論がある。認識論と現実解決の間で矛盾があるように感じるのは、これは「定義されてものごとが動く」という私たちの社会の宿命だ
 病気であるとされるのは、そうされた方が、当人にとってメリットになるから病気の診断がなされるわけである。抗生物質を健康体の人にむやみに投与するなどはよくないだろう。病気だとすることで抗生物質の投与が可能になる。そしてそれは、投与された方がメリットがあると考える患者がそこにいるからともいえる。病気の名称は、あくまでも、患者にメリットを及ぼすときに「●●病」などの名称が必要とされるというとらえ方を、私たちはもっと重く意識していい。病気とされることが当該者にとってなんのメリットもなければ「●●病」など必要ない。性同一性障害(GID)だって同じ。病気だとすることで当該者にメリットがあるから(性転換手術やホルモン療法など)そうしているだけにすぎない、というように理解していく方が本来だろう。メリットが少なくなればGIDだとの病名を冠される必要性も減じる。現に、ホルモン投与や豊胸手術ぐらいは、精神科医に長々と通って「性同一性障害」という病名診断を受けなくても、そういう処置をしてくれる医者はいる。ニューハーフのような接客業に就いている方には、病気などという概念などどこ吹く風でホルモン投与や豊胸手術をされている方は多い。30年ぐらい前、私がニューハーフとしてアルバイトしていたころ、性同一性障害の言葉を聞くことは全くなかったが、ホルモン投与や豊胸手術などは多くの同僚がやっていた。性転換手術が、病名を冠されることと関係なく可能になったときには(それが望ましいかどうかは別の議論)、性同一性障害という「病名」そのものが雲散霧消していくのではないだろうか。トランスセクシュアル(体を別の性に変えて生きる人・生きていきたい人)、トランスヴェスタイト(別の性の服装をすることで性別違和感を緩和しようとする人)などの語は消えないだろうが、これは性同一性障害という「病名」とはちがった定義である。
 さらにもうひとつ。精神疾患をどう考えるかという問題がある。精神疾患の分野は、基準をどんなにつくっても、それをどのように判断していくかは診る人によっても異なるというややこしさがある分野だ。裁判のときの精神鑑定で、A鑑定者とB鑑定者とでまったく異なった判断を行うことはよくある。事件があったとき、責任能力があったかなかったかの診断で、意見が分かれているなどの話はよく聞く話だ。
 「こころ」の問題を診断するというのは、風邪や癌を診断するのとはまたちがう。となるとなおいっそうのこと、2元的なものの見方は当てはまらないことになるのではないか。当てはまらないけれど、病気だと診断することで性転換手術が行えるということにもつながっていくということがあるために、GIDという病気か病気ではないかということを2元的に考えなければならない側面があることが、こういった性の問題を考えるとき、私たちの理解を混乱させる原因にもなっているのではないか。
 性同一性障害の人とトランスジェンダー。2元的理解、二項対立的理解では無理がある。両者はグラデーション的に変化している性のありようのある階梯に位置しているとみる方がよほど自然である。となると、「こうならざるを得なくなっている形」と「自分の意思でこうしたいからしてる」と、2元的、二項対立的に分けて考えるのことに無理があるととらえるのが自然ではないだろうか。
 自分はトランスジェンダーであって性同一性障害ではないと、声高に主張するのも、二項対立的な発想から抜け出していないとはいえないか。一見対立するように思えるこの立場は、コインの裏表の関係だと私は思っている。もっとも、トランスジェンダーを主張することで、自分は病気という他者からの認定に依存して生き方を決めていくことはしたくないというような、当人の自分のあり方は自分で決めるという「意思」には敬意を表するとしても、その意思は、経済学部と工学部の選択肢からどちらかを選ぶというようなことがらとは次元がちがう。「こうならざるを得なくてなっている形」という側面は少なからずある。この点に着目したときには、GIDと自分を位置づけている人たちと本質的にかわるところはない。対立的にとらえ主張する一部のトランスジェンダーの主張をみて、それが全体にあてはまるなどとは考えない方がいい。