No.112 私の発言をねじ曲げて受けとられても困る
あるトランスジェンダーが開いておられる日記のなかで、私のことを指して書かれた部分がありました。私の主張したことをそのまま解釈されておられるのであれば、とりたてて反論するつもりはありませんが、重要部分について、私の主張とちがった受けとめをなさっておられます。
私の主張に対して、意見がちがうことで批判されるのであれば、それは建設的な方向だともいえますが、私が考えてもいないことを、あたかも考えているようにとらえて、それに対して批判されるとなれば、わら人形を勝手につくりあげて、それに釘打つようなまったく無意味なこととなってしまいますので、ここで私の主張のポイントをのべさせていただきます。
なお、当該日記では、私の名前を伏せて書いておられますので、私も、その日記の方のお名前は伏せさせていただきます。
【当該日記から その1】
男性から女性へのトランスジェンダーである私が、(※1)女性に対する性暴力に敏感なこと、性暴力の加害者(具体的には、植草元教授)にシビアな姿勢をとることが、公の場で批判されなければならないほど、いけないことなのか?
私にはどうしても理解できない。
社会的に「女」になってから痴漢の被害を何度も受け、不愉快で惨めな思いを何度もした。危うく性暴力(レイプ)の被害者になりかけて、必死に脱出したときの、鳥肌が立つような恐怖感は一生忘れないだろう。私の性暴力の加害者に対するシビアな姿勢は、そうした自己体験に根ざしている。
(※2)さらに、私は子供の親だ。
だから、女性、子供に対する性暴力、その加害者を、絶対的に許容することができない。
ましてや、性暴力の加害者に対して同情的・融和的になれるはずがない。
トランスジェンダー、あるいは、性的マイノリティ、さらには、クィアであるのならば、性暴力や小児性愛の加害者の心情に思いをいたせ、シンパシィを抱けというのなら、私は、トランスジェンダーであることも、性的マイノリティであることも、クィアであることも、辞めてやる!
←ギリシア、エーゲ海のミコノス島、スーパーパラダイスビーチ.ここはヌーディストビーチとして知られる.こんな姿になることが好きだとして湘南海岸でこんなことを実行したら犯罪行為になるでしょう.だけど、そこに集まる人の了解が得られる場所であれば、こういう姿だって犯罪にはなりません.
(※1)に関して・・・・色つき文字と※印は私の方でつけたものです。
性暴力はそれは他者を著しく傷つける行為でもあるわけですから、厳しく断罪し、行為への責任についてはシビアな姿勢を持つことは当然のことです。私も、高校教員として、性暴力の対象となりうる生徒たちを目の前にしていますから、この部分のこの方の主張に関しては、いささかたりとも「おかしなこと」だなどと思ったことはありません。
性暴力に対して敏感なことはきわめて大切なことです。日本はこれまでともすると、男性の性欲の発露からの行為について、それが相手側の人権を侵害する行為であっても、それに寛容な雰囲気がありました。曰く、男はもともとエッチで能動的にできているから、それがないと子孫繁栄はできないからね、などという物言いがその類です。21世紀の今、こういう感覚が許されることではありません。
私の主張は、こういう感覚とはまったく違います。
性暴力に対してシビアであることと、性暴力を起こす元になったその人の性のありよう(変な言葉でいえば性癖という単語もあるけれど私はあまり使いたい言葉ではない)をどのように受けとめていくかということとは、まったく次元が違う話であるということ。ここをしっかりと区別して理解しなければ、セクシュアルマイノリティということがらもはっきりと理解できないのではないかと、私は考えています。
なかなかうまい例えは見つかりませんが、強いてたとえれば、コンビニに行ってある商品がほしいと考えたとします。「ほしい」と考えることを悪いことだなどとは誰も言いますまい。しかし、その商品を、ほしいがゆえに万引きしたとすれば、その「万引き」という行為に関してシビアに見ることは当たり前のことでしょう。
これと同じようなことだと考えませんか? 他者を傷つけるという実行行為へのシビアな態度と、その元になった「性のありよう」とを混同することは、それは結局は、その人の否定につながる危険性を持っているがゆえに、しっかりと峻別しなければならないというのが、私の主張のポイントです。
(※2)に関して
私も子どもの親。子どもを大切に思う気持ちは同じ。
自分の子どもが性暴力の被害者になったとしたら、その加害者を絶対に許すことはできないでしょう。
で、この方は、ひとつ大切な点を見落とされているような気がします。
子どもが性暴力の被害者になる可能性と同時に、自分の子どもが、性暴力を起こすことにつながる「性のあり方」を持って生まれてしまう可能性も秘めているということ。
性暴力の被害者の親の気持ちに想像力を働かせるのは、これはわかりやすいものです。しかし、誰であっても、性的サディズム(たとえば神戸の酒鬼薔薇事件の加害者生徒)や小児性愛を持った子どもの親になりうる可能性があるわけですが、こういった場合の親の気持ちには想像力をめぐらせにくいものです。
万が一、そういった子どもの親になってしまったとしたら、自分の子どもは変態だ、犯罪者だ、「こんなわが子は、『効果があるかわからない精神療法より、さっさと去勢しちゃった方が手っ取り早いし効果的※』だ」と考えるような社会であっていいのかどうか。私は、この1,2年、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字で、この4つの性のあり方を総称した言い方)以外の性のあり方と、私たちLGBTとは、性のあり方についていったいどこがどうちがうのか、あるいは、ちがうと考えることがまちがいなのか、こんな疑問を抱き思考し続けていました。もし、私に、「運悪く」性的サディズムや小児性愛の子どもがいた場合に、私は親としてどう行動したらいいのだろうかということを、思考の埒外におくことはできないのじゃないか、などと考えるようになったのです。
※この方が以前、ご自分の日記で書かれていた表現です
というのは、今でこそ、LGBTはそれほど世間に隠さなければならないこととまでは思われなくなったかもしれませんが、私の若い頃は、それこそ、世間様に知られてはならない「身内の恥」という状況があったのです。このとき、私のような子どもを「運悪く」授かった私の親はどのように受けとめたのだろうかということに思いをめぐらしたとき、今度は、性的サディズムや小児性愛の子どもを持った親の気持ちに想像力を働かせることこそが、セクシュアルマイノリティの位置に生まれてきた私の宿命ではないのかと考え出しました。LGBT以外に想像力を働かせることができなければ、結局は、自分たち(LGBT)だけが助かればいいという狭い考えに陥ってしまうのではないかと私は思うのです。
この引用文の方には、子どもは、性暴力の被害者になる可能性ばかりではなく、性暴力を引き起こす「性のあり方」を持って生まれた子どもの親になる可能性もあるということを、性的マイノリティの一人であるからこそ、それだけに、マジョリティである一般の人以上に真剣に考えてほしいなと思っています。
【当該日記から その2】
(※3)どのような性幻想をもとうが自由ですが、それを性行動に移す場合、他者を傷つけるものは、社会的に許容されないのは、言うまでもないと思います。それは、時代による犯罪の線引の問題(線引が変れば許容される、されない)ではなく、ある程度、絶対的なものだと思います。
あの学会の場で、(※4)性暴力(痴漢行為)の常習者や小児性愛者が、クィアに含まれるか、同じ「変態(クィア)」として含まれるべきではないかという問題提起をした人物(一般参加者)がいました。
その人物は、性暴力常習者や小児性愛者も性的マイノリティであるという基本的立場です。
トランスジェンダーである自分が、性暴力常習者もしくは小児性愛者と同じ「変態(クィア」、もしくは、性的マイノリティというカテゴリーであるという認識を、私は、理性的にも心情的にもどうしても許容できません。
それを求められるのであれば、私は、性的マイノリティであることも、クィアであることも、辞めてやる!ということです。
←ミコノス島では、今や、ゲイの人たちはソフィスケートされた人たちとして歓迎されている.カメラを向けるとこうやって男同士で抱きあってくれる.実に愉快な人たちだ.
(※3)に関して
その通り。この主張部分は、私もまったく同じ考えです。
しかし、ご自分でおっしゃっておられると思うのですが、「どのような性幻想をもとうが自由」ということは、どのような性幻想をも、それが、他者を傷つける行動に出なければ、その幻想を受け入れるということではないのでしょうか。
ある性幻想を持っているということは、その性幻想を持つ人が社会的に少数だとしたら、まさにその人は「性的マイノリティ」ではないのですか? ご自分で「自由」だとおっしゃっている。ということは、受け入れているわけですから、あとの「性的マイノリティであることも、クィアであることも、辞めてやる!」という部分と矛盾しているのじゃないかと思ってしまいました。
(※4)に関して
ちがいます。そうは言っていませんし、そのような思考法を持っていません。まちがって受けとっています。
性暴力と小児性愛者とを同列で論じていることに、論理の問題として緻密ではないと思います。ただ、学会論文ではなく日記で書かれたことですから、あまり目くじらをたてたくはありません。私のことが書かれていなければ、あえて反論しようとは思いません。学問の研究会の場であれば、論理は緻密に議論しなければなりませんが、まさか、酒飲み場の与太話のときも緻密に言いあうとしたら無粋な話でしょう。酒飲みの場ではありませんが、日記までに緻密さを要求するというのも詮ないことです。ここでは、私のことが書かれているがゆえに反論していると思ってください。私に関わらないのであれば、詮ないことまでしたいとは思っていません。
性暴力というのは行為という形態です。性暴力そのものが「性のあり方」とか性的マイノリティということではありません。一方、小児性愛は「性のあり方」であり性的マイノリティであるはずです。小児性愛者であっても、自己の欲望をコントロールして犯罪に手を染めず性暴力という行為に走らない人もいます。一方、異性愛者であって性的にはマジョリティである人が性暴力を起こす場合もあります。
私の主張はこうです。
性暴力は、クィアや性的マイノリティとは関係ない実行形態を表す概念、一方、小児性愛は性的マイノリティ
したがって、植草元教授の事件(冤罪でないとしたら)については、法律にもとづき犯罪行為の実行者としてちゃんと処罰を受けるのは当然であり、性犯罪の実行行為については、みじんたりとも同情はしていません。
私は、以前、私のエッセイのなかで、下のように書いています。ここのどこにシンパシーを抱けと書いているでしょうか。複雑な矛盾する自分の気持ち、たまたま、私の性のあり方が、トランスジェンダーという「こちら側」ですんでよかったという安堵感と、割り切れない「悲しみに似た感情(伏見憲明氏の『欲望問題』で出てきた言葉)」が残るというような感覚でしょうか。私の言葉でいうと「なんとなくしっくりこない自分を感じるのです」だとか「彼の苦悩に無関心でいることもまたできないのです」という表現なのですが、これがどうして「シンパシー」といえるのか? 広辞苑によると、シンパシーとは「同情、共感、共鳴」という意味だと書かれていますが、私は植草元教授の実行行為に関して、いささかたりとも「同情、共感、共鳴」はしていません。犯罪と他者を傷つけたことに対して厳しく責任をもとめられるのは当然のことです。私が言いたいのは、性的マイノリティでも、たまたま、私が「こちら側」に生まれついたがゆえにラッキーだったという「幸運」を喜ぶだけの感情に対しては「しっくりこない」ことがあって、彼の苦悩(いいですか実行行為についてではないですからね)にも「無関心でいることもまたできない」と書いているだけでしょ。
他人が書いた文章を正しく理解することなくしては実のある反論は生まれないと思います。(日記にそのことをもとめるのが愚論だと言われればそれまでですが)
【以前アップした私のエッセイからの引用】
子どもが性犯罪によって被害を受けたとき、あくまでも子どもの側に寄り添って加害者を追及するというのが親の心情でしょう。加害者の気持ちに思いを馳せるということにはならないのはもっともです。
それでも、しかし、しかしなのです。ここまでで、私の思考回路を留めておくことができない自分がいることも、私は素直にそのことを吐露したいと思います。
たまたま、ある性のあり方をもって生まれてきて、片や人権問題のオピニオンリーダーともてはやされ、片や犯罪者として断罪される、伏見さんも書かれていた、このいいようもない矛盾を簡単に捨て去ることはできません。と、そこまで思いながらも、一方では、自分の子どもが性犯罪者の犠牲になったとしたら、その犯罪者を徹底して懲らしめてやりたいとも思うでしょう。
私自身の心に矛盾する部分があるということはわかっています。だけど、その矛盾から解き放たれる気持ちにはとうていなれない自分がいることもまた事実なのです。
・・・・・(途中 略)・・・・・
私は、植草教授がやった行為を、いささかなりとも免罪しようとは思いません。せっかく復活できそうになった大学の職を、今度こそはすべて失うことになったとしても、それも仕方がないことだと思います。未成年の女子高生に痴漢した行為の責任は自ら負っていかなくてはならないと思います。でも、私自身が、植草教授のような「女子高生フェチ」という性のあり方でなくてほっとしたという、たまたまの偶然にラッキーだったと思う自分もそこにいて、そのことが、私の心の片隅にひっかかりとして残るのです。伏見さんの言われる「後ろめたさ」という感情かどうかはわかりませんが、なんとなくしっくりこない自分を感じるのです。そして、彼には責任は負ってもらいたいと思う一方で、彼の苦悩に無関心でいることもまたできないのです。
【当該日記から その3】
(※5)他者を傷つける形の性愛(性欲)は、それが少数者であっても、性的マイノリティ、あるいはクィアに含めるべきではないと思います。
私は、そこらへんの線引きをちゃんとしないと、性的マイノリティ、あるいはクィアに対する、社会的誤解を招きかねないと思うのですが、逆の方向性を主張する人もいるわけで・・・・。困ったものです。
←ドイツとフランスからやってきたというトランスジェンダー?ドラァグクイーン? ミコノス島の夜、島の中心地ミコノスタウンには、こういった人や同性愛の人たちであふれかえる.もちろん、マジョリティの人たちもたくさんいて、お互いに排除しあうことなくエーゲ海の夏を楽しんでいる.
(※5)に関して
ここの部分に関しては、クィアとは何か、性的マイノリティとは何か、もう少し具体的に言うとすれば、クィアとはLGBTだけなのか、それとも、それ以外の少数の性のあり方をも視野に入れることによってクィア理論はより豊富になっていくのか、ということにもかかわってくると思っているところなので、今後、大いに議論が深まっていけばいいのじゃないでしょうか。
私は、どのような「性のあり方」、引用の言葉でいうと性愛(性欲)あっても、そのすべてと言いきることはできませんが(この面の詳細な研究をしているわけではないので)、ほとんどについては性的マイノリティだと思っています。
他者を傷つけるか否かということとは、論点としては別の次元のことがらです。
他者を傷つけるという行為は、別に、それが性的にはマジョリティの立場であっても許されることではありません。マイノリティとかマジョリティなどとは関係のない概念です。
小児性愛、たしかに、自分の子どもがこういう「性のあり方」に生まれついたとすれば、親としては気が狂わんばかりに頭が痛い問題でしょう。しかし、だからといって、自分の子どもを認めない、許さないというわけにはいきません。子どもはどんな人であっても愛する子どもなのです。子どもが小児性愛者と知ったとき、「なんだって、なんでそんな変態のことを考えるんだ。けしからん」などと罵倒し変態扱いしていくことがいいことなのでしょうか。もし、小児性愛が性的マイノリティに入らないとした場合、親は、自分の子どもを犯罪者予備軍扱いにしなければならなくなるでしょう。もちろん他人には、わが子のことを絶対に話せないでしょう。
もしこのとき、
「小児性愛だったとは、たいへんな十字架を背負ったね。だけど、親として、キミの性のあり方はひとつのあり方として受けとめるよ。しかし、実際に、年少者に性暴力を実行したら、年端のいかない相手を深く傷つけてしまうし、もちろん犯罪だ。そんなことはしてはならない。だから、そういう実行にいたらないように、自分の小児性愛の性の苦悩を軽減する方法を学べ。人は、どういう欲求や欲望を持っても、そのこと自体は変態でも悪いことでもない。だけど、欲求・欲望はコントロールされなければならないんだよ。親として、キミのあり方はひとつの個性として認める。だけど、だけど、キミの個性が他者を傷つけることがないようにするすべを学んでほしい」と語りかけたとしたらどうでしょう。
その人の性のあり方を受けとめ認めるということは、実行行為を未然に防ぎ犯罪にいたらないようにすることとも、深くつながっていくと思うのです。恥ずかしくて他人には話せないとして、自分の子どものことを隠すなどとなれば、子どもは敏感ですから「やっぱり親は自分のことを恥だと思っているんだ」と、よりいっそう、自分を苦悩の無間地獄に落とし込むようになるのじゃないでしょうか。その昔、親が障害者を「一家の恥」として隠し通したこととも一脈通じるような気がします。
「他者を傷つける性愛(性欲)」を性的マイノリティとして認めないと断罪するのでは、当人は自分の気持ちを内に秘めておく以外にはなく、気持ちを解放させずに内に秘めさせるということは、むしろ逆に、性暴力につながっていきはしないでしょうか。いかなる性愛(性欲)であっても、それを明るく人にも語れるようになっていれば、気持ちは解放されます。そのなかで、自分をコントロールしていくことを学んでいくことの方が、私はよほど、性暴力を減らすことにつながっていくと思うのです。
【当該日記から その4】
この質問者は、まさにそういう人でした。
私の言説に反対する意見を、会場で述べ、かつ壇上にいるパネラーの同意を得ることで、(※6)「自分を認める」ことと「**(**でお名前は伏せます・・・・宮崎補足)を貶める」ことを同時に意図したのだと思います。
(※6)に関して
こういった感情論にいちいち反応するのも馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、こちらが考えてもいないことを、あたかもそう考えているかのように日記に書き散らすとなると、一応、いっておきたくなるものです。
「自分を認める」・・・・??? クィア学会なのですから、LGBTは当然の前提として「認められている」わけでしょ。LGBTのなかの「T」である私を、あえて認めてもらうなどという必然性など、どこにあるのでしょうか。
「**を貶める」・・・・??? 私はお名前を伏せていたはずです(名前を言いなさいと、質問者でもないこれを書いた人が不規則発言したのじゃありませんか・・・それでも伏せましたが)。あの場にいる人で、私の発言から「**」の名前を推測できた人はほとんどいないはずですよ。よほど、この方の日記を隅から隅まで読んでいる人でないと、誰のことかはわからないはずです。
私の質問の要旨は「クィアはLGBTだけなのか、それとも、それ以外も視野に入れるのか」ということだったはずです。およそ、質問をするとき、なぜその質問をするのかという背景を語ることはよくあることです。私は、この1,2年間、性的マイノリティの範疇はLGBTだけでいいのかという問題でいろいろと考えていました。そのとき、「非理性的に言うと、効果があるかわからない精神療法より、こういう手合いは、さっさと去勢しちゃった方が手っ取り早いし効果的なのだけど」と書かれた、以前の日記のこの方の文章には、かなりのショックを受けたという事実があります。その後、伏見憲明氏が『欲望問題』のなかで、私の問題意識とほとんど同じような感じ方をしているのを知り、私の問題意識は決して私だけの特殊な思考ではないのだと思うようになった経過がありました。
パネラーへの質問というかぎられた時間のなかでは、どうしても舌足らずになり誤解を受けたとしてもやむえないかもしれませんが、なんで私が「**を貶める」必然性があるでしょうか。私は、この方の業績を高く評価しています。授業で引用して、こういうすばらしい方がいるんだよと語ることもあります。業績を高く評価することと、そのなかで、私と見解がちがう部分について真摯に意見を言っていくということの2つは、いったい相矛盾するのでしょうか。
業績を高く評価するだけに、ちがう見解については、ちゃんと言っていくことが、私は、論理と向かいあってものごとを語るときの真面目な態度だと思っています。なのに、どうして、「**を貶める」と意図したなどと、突拍子もないことを想像してしまうのでしょうか?
※研究者・学者の言説については、その方がどんなに権威ある「えらい人」であったとしても、自分と意見がちがっていて反論することがらがあれば、批判をためらってはならないというのが、私の人生のなかで勝ち得た「人生訓」でした.権威の前にひれ伏す態度があったとき、その時点で、学問は「科学の言葉」ではなく「宗教のバイブル」なってしまい、学問としての命はそこでつきてしまうと思っています.
他人を貶めるという意図をもって質問する人がいるかどうか知りません。私は、およそ、多くの議論がたたかわされているなかで、議論の裏の意図を推測したことはないです。そこで語られた言葉のなかだけで考えます。「お人好し」と言われればそれまででしょうが、裏の意図など思いもつきません。そんなことを考えるのは苦手なのです。
思ってもいないことをバーンと書かれてしまいましたので、たとえようもなく悲しい気分になってしまいました。