No.110 伏見憲明著『欲望問題』を読んで共感したこと
なかなか自分の思考を覚醒させられるすごいと思う本には出あわないのですが、今回、そういう本にめぐりあいました。伏見憲明さんというゲイの方が書かれた『欲望問題』(ポット出版)という本がそれです。差別問題やジェンダー問題を語るなかで「言っていることはその通りなんだが、なんか胸の中にストンと落ちてこないんだよなあ」などと「こっそりと」思っていたような人にとって、まさに目を覚まさせられるような本だといってよいと思います。
ただ、今回の私のエッセイは、この本の本論部分ではなく、序論にあたる導入部分で書かれていたことへの共感のメッセージです。
********************************
伏見さんのこの本で、まず、心を通じあえた気がしたのは、序論にあたる「少年愛者の『痛み』」というところでした。この部分は本論ではないのですが、私が持つ問題意識と重なりあっていて、まさに「わが意を得たり」という気がしたのです。
ある同性愛者からのメールということで、鈴木太郎さん(仮名)からのメールが紹介されています。鈴木さんは、大人になる前の少年が好きで成人したゲイの男性だと興奮することができないということ。そして、いけないことだという認識もあるため、実際には少年と性行為を行ったことはないのですが、本当に子供に手を出してしまう寸前だと、自分の悩みを吐露されています。
伏見さんは、この方のメールを読んで、つぎのような感想を書いていました。
「こうした嗜好、指向に対して、多くの人は『それはいけないことだ、そんなことをやったら犯罪者だ』と、簡単に自分と切り離して断罪するわけですが、ぼくにはそんな割り切りはできません。いったい自分と彼とにどれほどの違いがあるのだろうか、と考えてしまうからです」
「子供をターゲットとした性犯罪が社会問題としてクローズアップされています。ぼくもそうした凄惨な事件で手をかけられた被害者のことを思うと、胸がきしみます。犯人に対して激しい怒りもおぼえます。しかし、彼らのことを憎んだり軽蔑するだけでは気持ちがどうも収まらない」
うーーん、まったくそう。私もこの感じ方と同じような気持ちを抱いているのです。
伏見さんは、自分とちがう他者の苦悩を、高みの立場にたって客観的に眺めるのではなく、自分に引き戻して、自分が抱えてきた苦悩と重ねあわせるかたちで想像力をめぐらせています。私が、つねづね、高みの立場にたって客観的に見るような態度をとることなどない、などとは口が裂けてもいえませんが、しかし、そうした態度は、セクシュアルマイノリティのひとりとして不誠実なことだというような「良心の呵責」は持っているつもりです。なので、伏見さんのこの姿勢にたいへん共感を覚えたというわけです。
この本の本論部分とはいえない導入部分に強く惹かれ共感を覚えたのは、実は、以前、私自身が似たような自分の気持ちがあって、他人のブログの日記を読んで、ある書き込みを行っていたことがあったからなのです。
以前(半年ぐらい前)、三橋順子さんという自らもトランスジェンダーで性社会史研究者と言われる方がいらっしゃって、この方のブログの「続・たそがれ日記」というなかのある書き込みを読みました。それは、2006年9月14日の日記なのですが、そこにはつぎのように書かれていました。
【三橋順子さんの日記から】
朝日新聞夕刊に「植草教授また逮捕」の見出し。
13日夜、京浜急行の品川〜京浜蒲田駅間の電車内で17歳の女子高生のお尻を触って東京都迷惑防止条例違反で現行犯逮捕されたとのこと。
このセンセイは、早稲田大学大学院教授だった2004年4月にJR品川駅のエスカレーターで女子高生のスカートの中を手鏡を使ってのぞき見しようとして、現行犯逮捕されている。
早稲田大学の職も、テレビに度々登場する人気評論家の地位も失い、2005年4月に東京地裁で有罪判決(罰金50万円、手鏡没収)をうけた後、名古屋商科大学大学院客員教授として教育界に復した。
常識的に考えれば、これだけ大きな社会的制裁を受ければ、十分に懲りて悔い改めるだろうと思う。
だからこそ、名古屋商科大学も学者としての能力を惜しんで拾ったのだろう。
だけど、2004年の事件の時に報道された状況を見る人が見れば、「これは(出来心ではなく)常習だな」とわかる。だから、今日、夕刊の見出しを見た私の感想は「やっぱり。でも(再犯が)ずいぶん早かったな」だった。
前回の犯行は、帰宅経路とかに関係のない、わざわざ品川駅に出向いて行ったものだった。今回の犯行も、品川発の電車。ちなみにセンセイの家は、港区白金台3丁目だそうだから、品川から蒲田方面の電車に乗るのは、まったくの方向違い。今回もわざわざ品川に出向いたのだろう。しかも、2度とも、対象は女子高生だ。これはたぶん偶然のことではないと思う。
こういう痴漢行為を繰り返す人の中には、女性なら誰でもいいというわけではなく、特定のタイプ(年齢、ファッション、髪形など)に強くこだわる傾向が見られる。
痴漢行為の根底に、ある特定のタイプの女性に対する強いフェティシズムがあり、それがスイッチになって欲情し犯行に及ぶからだ。
このセンセイの場合、そのスイッチが、たぶん品川駅から乗車する特定の制服の女子高生なのではないだろうか。(途中 略)
もちろん、フェティシズム傾向がある男性が、皆、痴漢行為に走るわけではない。
ほとんどの人は理性で性的欲望を抑える術や、発現するにしても場(TPO)を心得てる。そして常習犯の場合、「二度あることは三度ある」の格言がそのまま適用できることが多い。だから、予言すると、このセンセイ、このままだと、またいつか品川駅か品川駅発の電車で4度目(1998年にも神奈県迷惑防止条例違反で逮捕、罰金5万円の有罪になってるので、今回が3度目)をやると思う。
それを防ぐには、累犯なのだから厳罰(懲役)に処すだけでなく、矯正プログラム(精神療法)を課すことが必要だろう。
(非理性的に言うと、効果があるかわからない精神療法より、こういう手合いは、さっさと去勢しちゃった方が手っ取り早いし効果的なのだけど)
「非理性的に言うと」というように、現実に行うべき措置ではないことを断っていることから、あくまでも三橋さんの個人内の気持ちではあるだろうけれど、「さっさと去勢しちゃった方が手っ取り早いし効果的なのだけど」と切り捨ててしまうところに、私はいくばくかの薄ら寒さを感じたのでした。 だって、三橋さんだって他の多数の人とはちがって生まれてきたセクシュアルマイノリティではないか、時代が時代ならば、場所が場所ならば、トランスジェンダーであることが犯罪にもなり死刑にだってなりうる「極悪犯」ということになるではないか、たまたまトランスジェンダーならば社会としても許容されようとしている時代に存在しているからといって、痴漢という犯罪行為にすら走らなければ収まらない女子高生制服フェチという忌まわしい性のあり方として生まれてきただろう植草氏に対して、見下ろすような言葉でここまで言い切っていいものか・・・・こんな気持ちが沸々とわいてきたのです。
だから、私は、つぎのようなコメントを書き込んだのでした。
【私からのコメント】
分析もまったくその通りだと思いますし、結論についても、三橋さんと同じく「矯正プログラム(精神療法)を課すことが必要だろう」に賛成です。だけど、トランスジェンダーというご自身の性的少数者という立場をもちながら、
>(非理性的に言うと、効果があるかわからない精神>療法より、こういう手合いは、
>さっさと去勢しちゃった方が手っ取り早いし効果的なのだけど)
というような突き放したような心の中の気持ちをお持ちになられるのが不思議でなりません。
たまたま、性のあり方でトランスジェンダーに生まれ育ってきた人は、植草教授のように、他者に苦痛を与える「犯罪行為」に走る必然性はありません。しかし、それはたまたま性的少数者のなかで、「犯罪行為」を必要としないトランスジェンダーというあり方であったからであって、植草教授のような類型に生まれてきた場合、欲求を理性でコントロールしようにもそれができない人だったのかもしれません。もちろん、トラウマになるかもしれない被害者の女子高生がいるわけですから、コントロールできない「あり方」だったことが免責されるわけではありません。
ただ、みずからも性的少数者としての当事者(その意味では植草教授も同じ)の、やめようと思ってもやめられない「性の苦悩」を重ね合わせるコメントを書いてほしかったなあと思いました。
トランスジェンダーが犯罪とされ重い罪になる国もあるわけですから、性的少数者に生まれてきた者どうしてして、「性の苦悩」も重ね合わせながら、しかし、二度と被害者をつくらないようにするには、社会はどのように対応していったらいいのかを、マイノリティ問題で見識のある三橋さんにはコメントしてほしかったと思います。
植草教授の痴漢という犯罪行為には、「なんで、立派な大人が、未成年で、今後ともトラウマになって心の傷を負っていく女子高生に犯罪行為を犯したのか」と、やりきれない気持ちがジーーンと突き上げてくるのですが、私も性的少数者のひとりとして、植草教授のような類型に生まれてこなくて幸いだったなあと、自分の幸運にありがたいと思わずにはいられませんでした。
一定の割合で一定の類型の人たちが生じてくるわけですから、三橋さんや私が、たまたま植草教授の類型とはちがって生まれてきたという幸運かもしれません。
植草教授も、自分の性のあり方を疎ましく思い、やめたいと思っていたかもしれません。だけどやめることができないほどに、あのような行為へのリビドーが強かった。
私としては、人ごととは思えないのです。もし、性的少数のタイプが植草教授のように生まれていたら、と思うと、ぞっとすると同時に、彼の苦悩もわかるような気がするのです。
東京レズビアン&ゲイパレードの会場にて、伏見憲明さんとのツーショット →
伏見さんは、本の11頁で、つぎのように書かれています。
「セクシュアリティ、性的欲望は、偶発的に、自分に胚胎するものだという実感があります。異性愛の欲望だって同性愛にならなかったという意味で、ぼくに言わせれば偶然の結果です。フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって・・・・・・みんなそういうものではないでしょうか。それぞれ本人の実感の中では、選択的なものではなく、自然にそうなっていた、としかいいようがない」
「友人のゲイが、ある少女に対する暴行殺人事件の報に接して『本当にゲイくらいでよかった』とほっとしたようにつぶやいたことがあったのですが、ぼくもそれに深く共感しました」
「(犯人の人とは・・・・宮崎が補足)ぼくには紙一重の差にしか思えないのです。たったそれくらいの違いで、いま、ぼくは自分の欲望のあり方を世間様に人権問題として訴えることができ、幼い子供に欲望を抱いてしまう人々は犯罪者として断罪される。なんだかすごく理不尽のようにも感じます」
三橋さんへのコメントは、植草教授の事件に関して、当時、私が彼女のブログに書き込んだものですが、書いたときの私の気持ちが、この本での伏見憲明さんが書かれたことと似ているなあと、なんだか重なりあったような共感を感じたのでした。
痴漢犯罪は、当然のことながら被害者がいるわけですから、加害者を厳しく断罪する論調が言論界の一般的なことであり、いささかでも、加害者の苦悩に思いを馳せるような発言はなかなか言いにくいものです。学校の教員ということもあり、加害者を断罪し被害者の立場にだけ立つということが、教員として求められる姿勢でもあるでしょう。だって、私が勤務する学校にも女子高生がいるわけですから。その子たちが被害に遭えば、加害者を断罪するというのが私がおかれた立場でもあるでしょう。
また、子どもが性犯罪によって被害を受けたとき、あくまでも子どもの側に寄り添って加害者を追及するというのが親の心情でしょう。加害者の気持ちに思いを馳せるということにはならないのはもっともです。
それでも、しかし、しかしなのです。ここまでで、私の思考回路を留めておくことができない自分がいることも、私は素直にそのことを吐露したいと思います。
たまたま、ある性のあり方をもって生まれてきて、片や人権問題のオピニオンリーダーともてはやされ、片や犯罪者として断罪される、伏見さんも書かれていた、このいいようもない矛盾を簡単に捨て去ることはできません。と、そこまで思いながらも、一方では、自分の子どもが性犯罪者の犠牲になったとしたら、その犯罪者を徹底して懲らしめてやりたいとも思うでしょう。
私自身の心に矛盾する部分があるということはわかっています。だけど、その矛盾から解き放たれる気持ちにはとうていなれない自分がいることもまた事実なのです。
伏見さんのこの章の結語と、私の感情とがまた重なってきます。「年少者の心に傷を残すような行為は認めないというのはこの社会の原則でしょう。・・・・(途中略)・・・・ぼくは少年愛に社会的認知を、と主張しようとは思いません。ただ、自分の中のどこか後ろめたさのような感情が拭えない。線引きのこちら側にギリギリ入った自分に安心すると同時に、彼らの『痛み』をどうすることもできない悲しみに似た感情が残ります」
私は、植草教授がやった行為を、いささかなりとも免罪しようとは思いません。せっかく復活できそうになった大学の職を、今度こそはすべて失うことになったとしても、それも仕方がないことだと思います。未成年の女子高生に痴漢した行為の責任は自ら負っていかなくてはならないと思います。でも、私自身が、植草教授のような「女子高生フェチ」という性のあり方でなくてほっとしたという、たまたまの偶然にラッキーだったと思う自分もそこにいて、そのことが、私の心の片隅にひっかかりとして残るのです。伏見さんの言われる「後ろめたさ」という感情かどうかはわかりませんが、なんとなくしっくりこない自分を感じるのです。そして、彼には責任は負ってもらいたいと思う一方で、彼の苦悩に無関心でいることもまたできないのです。
さて、私からのコメントに対しては、三橋さんはつぎのように回答されました。
【三橋順子さんからの回答】
理性的に考えれば、ご指摘の通りだと思います。
ただ、前回の事件の裁判で見せた植草氏の態度、そして今回の犯行の内容などからして、彼が「やめようと思ってもやめられない『性の苦悩』」を切実に感じ、被害者の女子高生に真摯な謝罪の気持ちを持っているとは思えないのです。
その点で、彼の行為に一片の同情も寄せる気にはなれませんし、まして「性的少数者に生まれてきた者どうし」という気持ちも持てません。
うーーん。私はここまで割り切れません。「まして『性的少数者に生まれてきた者どうし』という気持ちも持てません」とは、とても言い切れないのです。むしろ、伏見さんのように、犯罪であることはわかるのだが、でも割り切れない「悲しみに似た感情」が残るというように、逡巡する心の方に共感を覚えます。