No.109 浅野史郎さんの都知事選敗北の弁から考える
               


 4月14日付の朝日新聞に、都知事候補として選挙を戦い石原現知事に敗北した浅野史郎さんへのインタビュー記事が載っていた。敗戦の分析、大きなとらえとしてはその通りだと思う。だから、なおのこと、少数者の痛みを全体化することは難しいと感じる。ことに、少数者の痛みに耳を傾けるよりは、「勝って何が悪い! 勝ち組こそ善だ!」「負けたのはがんばらなかったその人の責任だ」などという、優勝劣敗、弱肉強食の感情がなんの恥じらうこともなく跋扈している今、「少数者(マイノリティ)が生きやすい社会こそみんなも生きやすい社会になるのだ」なんていう言葉は死語になりつつあるのかと、まったく暗澹たる気持ちになってしまう。
 浅野さんへのインタビューの要点を引用する。

 −−−何が敗因か。

「一番は図式の問題。『石原都政、我慢できますか』と訴えたが、考えてみると、これを実感しているのは、教育や福祉の現場などで実害を受けている人たち。数は限られていた。スキャンダルと違い、『におい』みたいなものに対する危険性は伝えにくかった」
「妻は選挙前から『悲鳴を上げているのはごく一部の人たちでしょ』と言っていた」

 −−−現職の壁は厚い。

「普通の都民生活には『都政をなんとかしてほしい』という意味の切迫感はなかったんでしょう。そうなると、石原知事のあの強そうなイメージ、あれでいいじゃないか、ということになる。私も宮城県知事選では印象で選ばれましたから」


 浅野さんが述べていた「教育の現場」に私はいる。率直に言って、私のまわりの人たちで「石原さんを支持する」なんて人はまずいない。「石原さんはもうやめてくれ」というのは多数意見というよりは、ほとんど全部といっていいぐらいの声でもある。ところが東京都全体となると、100万票以上もの差をつけられて敗北するぐらいに、石原さんへの支持は大きい。なぜだろうか。
 これも浅野さんがいみじくも語っている。
 教育や福祉の現場などで実害を受けている人たち。数は限られていた、と
 国歌斉唱のとき起立を強制され、自身の思想信条から納得できなくて不起立するとたちどころに処分される。憲法にはその19条で、思想信条の自由を保障するという「内心の自由」が定められているのだが、こんな条文など知ったことじゃないかのごとく、現に強制は行われる。しかも、生徒が彼ら自身の判断で起立しない場合、そのことが目につくと、指導がおかしいと担任への責任までかけられるということすらまかり通っている。
 こういった実情を、毎年毎年感じている教育の現場では、まさに「実害」を実感しているわけだが、その実感は外部にはなかなか伝わっていないというのが現状だ。たぶんこういうことだろう。私自身のことを振り返ってもなんとなくわかる。
 日の丸を国旗とし、君が代を国歌として、儀式や一定のセレモニーのときに歌ったり掲揚したりするということは、一般に行われていて、これは他の国でも同じようになされている。多くの人にとっては、起立し歌うことを苦痛に感じることはない。多少、めんどうくさいなとぐらいは思ったとしても、苦痛を感じるというわけではない。逆に、「国旗や国歌に反対する人は、だいたいそういう人は日本人としてふさわしいのか」とすら簡単に思ってしまっても不思議ではない。
 ことの本質は「国旗や国歌に反対する」かどうかということではないのに、焦点は、どうしても、国旗や国歌に反対するかどうかというふうに誤解されてしまっている。強制してくる側は、たぶん意図的にだろうけれど、なんで国旗や国歌に反対するのだ、そういう人が教員であっていいのか、と攻撃の論点をすり替えてくる。さらには、少数の人たちではあるけれど、日の丸・君が代ハンターイなどと左翼小児病的に反対運動をやる人たちがいるから、誤解はさらに増幅される
※ホントに運動音痴な連中がいるから嫌になる.たとえば中核派なんていう新左翼の人たちは「自由」「リベラル」の問題を過小評価していて嫌になる.
 私も含めて、多くの教員は、日の丸や君が代といった国旗や国歌があることにに反対しているのではない
 民主国家において、どんな価値観や世界観をもっていても、その内心の自由があることを、お互いが認めあい共存していくことの重要性を、とても大事なことなのだと考えているということなのだ。式典やセレモニーを妨害しないかぎりにおいて、個人が自己の内心にしたがって、そっと起立しないという自由は認めていこうよということなのである。起立したくないからといって「おまえはそれでも日本人か」などというような、他人への「良心の強制」はやめようよということなのである。税金を支払い、勤労し、子どもがいれば教育を受けさせる義務を遂行するというように、憲法で定められた3大義務を果たしていれば、当然にも、その人がどのような価値観をもっていたとしても「同じ日本に住む住民である」というふうに、お互いに尊重しあおうよということが、多くの教員が考えている問題意識だといってよいと思う。
 国旗・国歌に反対かどうかということであれば、熊本出身の私は、ずっと国旗・国歌があったこともあって、とりたてて国歌斉唱のときに苦痛を感じるわけではない。だから、起立することが苦痛だという人の「実感」は、私自身の肌身では十分には理解できない。それでも、私には想像力がある。人間だけが持ちうる想像力がある。苦痛だということを「実感」している人の立場を考えてみる想像力を持つ。そして、そういった人たちを身近にみているという現実もある。

 しかし、教育現場とは離れたところで生活している多くの都民にとっては、起立することが苦痛だというところにまで想像力を働かせることはなかなか難しいことなのかもしれない。強制のことがマスコミで報道されるので、漠然と「それでいいのかなあ」ぐらいの気持ちは持ったとしても、浅野さんが言っているように、『におい』みたいなものに対する危険性はなかなか伝えにくいし、危険なことだと「実感」して受けとめるのも難しいことなのだと思う。
 人は、自分の身近のところで「実感」する事態にならなければ、危険性を「危険」だと感じることが難しい。
 昔、日本の軍隊が中国に侵略し、そこでいろいろな「事変」を起こしたとしても、そのときは、国内ではエロ・グロ・ナンセンスの享楽を楽しんでいた。他国で起きている危険は、自分にとっての危険ではなかった。事態はどんどんすすんでいき、ついには、自分の身近なところに危険が迫ってきて、そこではじめて、ことの重大さを「実感」することになる。しかし、その時点では、ときすでに遅しであった。

 ドイツの宗教者、ニーメラー牧師が、つぎのような言葉を残している。

 ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は共産主義者でなかったので、何の行動も起こさなかった。後日、ナチスは社会主義者を弾圧した。私はさらに不安を感じたが、自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と 次々に弾圧の輪を広げていき、その度に私の不安は増したが それでも私は行動しなかった。
 ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから行動に立ち上がったが、その時はすべてがあまりにも遅かった。


 ニーメラー牧師の言葉にたとえると、今は、私自身の位置は宗教者であって、私とはほど遠い共産主義者が弾圧されている時期なのかもしれない。
 普通の都民生活には『都政をなんとかしてほしい』という意味の切迫感はなかったんでしょう。そうなると、石原知事のあの強そうなイメージ、あれでいいじゃないか、ということになる。・・・この浅野さんの分析は妙を得ている。教育や福祉の現場にいて「実感」できる人たちは、都民全体の数からいうと、浅野氏の妻が言っていたように「ごく一部の人たち」なのだ。私たちの「悲鳴」が都民の多数の「悲鳴」として実感できなかったところに浅野さんが敗北した原因があったというのは、まさにその通り。
 ごく一部の人たち(少数者)の「悲鳴」に耳を傾け、いくばくかなりとでも想像力を働かせようとする雰囲気は、一昔、二昔前はあったように思う。「踏まれた者の痛みはその人でないとわからない」という差別を受けた人の心の痛みを表現するたとえも、そんなに憎まれることもなく受け入れられていたように思う。ところが、今は、この言葉をあざ笑い揶揄するような言論が相当にまかり通っている。ネット社会の中には、痛みを声に出す人を利権屋呼ばわりしてはばからない現実もある。確かに、不心得者もいて、利権屋がいることも事実だが、痛みを持った多くの人は別に利権をもとめようとしているのではないのに、マイノリティの声はときに揶揄の対象とすらなってしまっている。
※誤解を受けないように補足しておきます.「踏まれた者の痛みはその人でないとわからない」という言葉を錦の御旗のようにして、被差別者が差別者だと断定したことがらを、これが正義だと糾弾していくやり方を支持するということではまったくない.むしろ、そういう反差別運動のあり方は、結果として「怖い人たちにはかかわらないようにしよう」「うわべだけはとりつくろおう」という態度を育てていったとも思っている.ただ、反差別運動の人たちの運動路線に反省するべき点があったとしても、最近のネットでの書き込みには目を覆うばかりの被差別者への侮蔑の言葉があるということを念頭において書いた部分である.
 事実はともかく、心理的には90%以上の人が中流意識を持ち、国民の間に格差意識がそれほどなかったときには、苦しんでいる少数者の声に耳を傾ける余裕があったのだろう。今、確実に格差が広がり、国民総中流をもとめる声なんぞ「悪しき平等」だなどと攻撃される時代、人は自分のことだけで精一杯になってしまっているのではないか。マイノリティのことなどにかまってられるかという気持ちが潜在的に広がってきているとはいえないだろうか。自分が「実感」しないでいて、他者に想像力を働かせるような余裕なんぞとてもない、といったところではないだろうか。
 国歌斉唱で起立することなんて自分にとってはどうということはない、と思ったとき、そのことで苦痛を感じている人の気持ちを想像することなどどうでもいいことなのだ。私だって、そういった感情は人ごとではない。熊本で育ち起立することに苦痛を感じていない私にとって、想像力を働かせることなんて面倒な心の作業でしかないからだ。そんな面倒なことをするよりは、優勝劣敗・弱肉強食のなかで、私自身が生き残っていく方途に思いを巡らせることのほうがよほど切実だ。こういう思いに至ったとしても、なんら不思議ではないような気がする。少数の人たちの「実感」を多数の人たちに理解してもらうのは、かようにたいへんなことなのだと思ってしまう。

 ここまで書いてくると、先行き、暗澹たる気持ちになってしまうが、たぶん、今後、優勝劣敗・弱肉強食がもっとすすみ、マイノリティを差別する心境も拡大していったとき、たぶん行き詰まりがくると思う。行き詰まりが社会の崩壊や戦争といった破壊につながる行き詰まりなのか、それとも、現在の政治の方向ではやっていけないという変革をもとめる行き詰まりなのかはなんともわからないが、ある程度、行き詰まらないと変化はないのではないだろうか。それが数年先なのか、10年なのか20年なのかは、それはわからない。

※行き詰まりがきて、政治の変革をもとめることがありうるかもしれないと書いたが、2007年夏の参議院議員選挙は、小泉政権での矛盾を受けついだ安倍政権への「NO」が、自民党惨敗をもたらしたように思う。その後、安倍首相は政権を投げ出し、安倍氏とは政治的色合いがちがう福田康夫氏が首相になった。自民党のなかでの政権交代なのでどこまで変化がありえるのかは疑問の点もあるが、ともあれ、行き詰まりへのひとつの回答なのかもしれない。ただ、まだ大きな変化が現れたとまではいえない。でも、ひょっとしたら、私の予想よりは変化は早まるかもしれないなとも感じている昨今だ。(2007年10月17日 追加)