No.108 首長族の風習から伝統・文化を考える
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世界には奇習が残る少数民族が存在するが、ここ、タイ北部の山村に住む「首長族」の女性もそのひとつ。幼児のころから首輪を巻き、歳が長じるにつれて首輪の数を増やしていく。24時間それをはずすことはない。首輪の数が多く首が長いほど美しいとされる民族らしい。少女だと8つとか9つの首輪だが、写真のような年長の女性になると30個ぐらいを巻いている人も少なくない。首が長くなるというより、肩の骨が変形して肩が下がるということのようだが、陰核切除の風習を持つ少数民族と同等とまでは言わないにしても、今の価値観ではかれば女性への「虐待」なのだともいえる。古来の中国には纏足があった。中国革命での「近代化」までそれは残っていた。
この村には電気も水道もない。山村ゆえ農業も自給自足
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程度のようだ。産業といえば、「首長」を観光資源として、村にはいるときになにがしかの入村料をとっていることしかない。日本円にして600、700円程度。首長(くびなが)の女性には「観光資源」として働く道があるだろうが、男性にはなにもない。村の中には、昼間からなにをするでもない人たちがごろごろとしている。
それを「遅れた社会だ」というのは、先進国の価値観から見ているだけだともいえる。物質的にはなにもないといっていいのかもしれないが、ゆっくりと流れる時間、あくせくしない人生。私たちとはちがった価値観で生活する人たちだとみることもできる。
でも、そう遠くない時期に、こういった人たちも、資本主義の競争社会のなかに組み込まれていきそうな気がする。資本主義の競争社会で生きていくことを是として受け入れたならば、物質的な欲望を満たす機会が与えられるため、欲望充足というのはこれは大きな契機とならざるをえないからだ。
そのときには、首長の奇習もなくなるのだろうか。
資本主義の前では文化は画一化の方向に向かわざるをえない。経済的な強者が弱者を淘汰する。経済にあわせて文化も淘汰される。人の欲望の前では文化は非弱だ。
資本主義は、その成立期に、理性をもとにした人権や自由主義の価値観が生まれ、労働者大衆が力を持ってくるにつれて、民主主義概念がそれに加わった。こういった価値観は今では普遍的とされるが、それはみかたを変えれば、資本主義経済が世界を覆うことと軌を一にしている。
ところで、保守主義思想は、それぞれの民族が育ててきた伝統や文化を重視する思想体系がある。資本主義の発展とともに普遍的となった「人権」概念では、女性への首長は虐待と解されるだろう。
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保守主義だと、これは伝統だと考え、そういった文化を守ることを「よいこと」だととらえるのだろうか。「人権」なんて、しょせん資本主義の近代化で生まれたある時期の価値観にすぎないから普遍的だなどとはいえず、それよりも、民族が育んできた伝統や文化こそを大事だと考えるのだろうか。だったら、カレン族で首長を女性に強いる文化を批判はできない。当の女性たちが、首長を別に嫌だと思っていないとなると、人権を振りかざして「首長なんて女性への虐待だ」ということ自体が、私たち先進国の価値観をもつ人間の傲慢にもなってしまう。
しかし、そうなると、纏足文化でも、それを女性が受け入れているならば文句は言えないのか。女性が性的快感を得ることを退廃だと考えて陰核切除を行う風習はどう考えればいいのか。
私の頭の中は堂々巡りがつづく。
でも、理性にもとづく人権や自由主義、民主主義の価値観を普遍的だと見ずに相対的にみる保守主義に、簡単に与するわけにはいかない。
今、安倍政権のもとで、保守主義の言論は、理性や人権、価値観の自由、民主主義に、はっきりと挑戦しだしている。「理性による人権・自由・民主主義を普遍的だとみるみかた」が「伝統や文化の重視」という保守主義の価値観の前で、決して安泰だとはいえない。現に、「個人の尊重」「価値観の自由」などの理念を基本としたこれまでの教育基本法が、伝統・文化の重視という保守主義の価値観の前に破れてしまったではないか。いや、まだ破れてしまったとはいえないが、かなりぐらつかされてきている。
保守主義の問題点にちゃんとした回答が出せるように、リベラルの側の理論構築が急務ではないだろうか。
首長族の村でも、子どもたちの笑顔は私たちの社会のそれと同じだった。なんだか癒された瞬間だった。
首長の風習が今後どうなっていくかはわからないが、言えることは、私たちがどうだこうだということではないということ。彼らみずからが、自分たちの伝統や文化と、そして「人権」とをどう折り合わせていくかを考えていかなければならないということだ。先進国に住む者が、「人権や自由は普遍的だから」と他民族にそれを強制することだけは避けなければならないと思う。私たちが、どんなに「おかしなこと」だと思うことがらでも、そのことをどうするかは、その民族自身が考えていかなければならないということ、そして、どういったあり方であっても、私たちは、その民族のあり方を理解しようという想像力をめぐらすことだと思う。
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