No.99 靖国神社に行ってみよう


 先日、靖国神社に行ってみた。総理大臣の参拝に関して、中国や韓国から強い遺憾の意が表明され、その後の外交日程にも支障をきたすようになった、その渦中のアイテムである靖国神社とはどういうところなのだろうかという関心事(問題意識)からである。かなり前に行ったような記憶もあるが、ほとんど忘れかけている。だから、初めての訪問に近い。
 私もそうだったが、多くの人にとっても、靖国神社に行ったことがないという人がほとんどではないだろうか。総理大臣の参拝への賛否がどちらであったとしても、ぜひ、一度、見学に行かれることをおすすめしたい。別に参拝する必要はない。私は、かしわ手をするでもなく賽銭をあげるでもなく、ただ、歴史的な建造物を、おごそかに、そして、敬意をもって見学しただけだが、それでも少しも悪くはない。
←ちょっと雨模様だったが、拝殿前での撮影だ.小泉総理はこの拝殿前で参拝したらしい.

 靖国神社ときくと、世間であまりにもかまびすしく議論されているので、なんだか「おごそか」という反面「右翼的象徴」などというイメージがあるが、そんなことは全くない。これは、行ってみてはじめてリアルにわかったことだ。
 ものものしい警備など一切なし。警察官の姿すら見あたらなかった。入るのにもなんのチェックもなく、境内への入り口は何カ所もあって、誰だって誰に見とがめられることもなく入れる。ただ、鳥居のばかでかさには圧倒されるが。
 今年は、拝殿前で、小泉首相が参拝されたとのことだが、拝殿前もなんの「ものものしさ」も「おごそかさ」もない。観光客が、携帯電話のカメラでキャピキャピと写真を撮っているし、外国人観光客もちらほらとみかける。東大寺や清水寺などとたいしてかわりはない。現に、私も、拝殿前で写真を撮ってきた。女装者がミニスカートでミーハー的に靖国神社に行くなんて、60年前までは考えられなかったかもしれない。でも、今はちがう。ミーハー的にでも、はたまた、肉親を戦争で失い、その慰霊の参拝だとしても、目的がなんであっても、「靖国神社を見物する」ことが手軽にできるのは、いい時代だ。
 もちろん、これはいただけないなあと思うところもある。
 靖国神社側にとっては、戦死者−A級戦犯までも−を神社が英霊として祀っていることを正当化しなければ(誰だって、自分の行為を正当化しようとすることを否定できない)、神社自身の存在意義がなくなってしまうわけで、立場としてはしかたがないのかもしれないが、つぎの見解はやはりまちがっている。
 靖国神社の資料館として遊就館というのがある。その資料館のパンフレットに次のような文章が載っている。

 近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり・・・・

 19世紀から20世紀初頭、欧米の列強はアジアやアフリカを植民地として支配するようになり、日本とタイとは独立を維持したものの、他の国々は植民地になっていったという歴史は事実としてある。
 そういった欧米に対して、日本の自存自衛のために命を散らしたというのであれば、それいう人を「英霊」とするのはわかるが、太平洋戦争を含む15年戦争は、果たしてそれだけだったのだろうか。とくに、日中戦争は、とても自存自衛とは言い難い。
 いったい、中国や韓国が、日本の独立を犯すかのように、日本に対して圧力をかけたのだろうか。むしろ、事実は逆だろう。朝鮮併合や満州国という傀儡をでっちあげたのは、日本の側ではなかったのか。
 中国に出征した兵士の手記で『三光』という本があるが、そこには、自分たちが中国人に対して行った虐殺の事実が生々しく書かれている。本人にとっては忘れてしまいたいことにちがいないが、勇気をもって書いていることに敬意を表したい。
 殺害した妊婦の腹をかき割って、お腹のなかの赤ん坊を取り出し「これが、日本にはむかう中国のガキだ」「こいつらが大きくなって日本にはむかう」などとして、血の滴る胎児をつかみ上げるシーンは、とても人間の行うこととは思えない。鬼そのものだといってもいいぐらいなのだが、しかし、その「鬼」も、自分の家では心あたたかい父親であったというところに、戦争の残酷さを感じてしまう。
 こういったことを行った兵士たちの行為が、我が国の自存自衛のためであるとか、自由で平等な世界を達成するためなどとは、どんなに口が裂けても言えないのではないだろうか。靖国神社側は、こういった行為を行った人たちも含めて、「自存自衛」「自由で平等な世界を達成」「英霊」と言うのだろうか。
 もっとも、こういった行為を行った第一線の兵士だけを責めることはできない。もともとは優しき父親であったのが、国家の営為によって「鬼」に変えさせられたわけであって、広く言えば、こういった「鬼」も国家行為の犠牲者といえるかもしれない。
 15年戦争は、決して、欧米列強の無法に立ち上がった「正義」の自存自衛の戦争だけだったのではない。欧米列強と同じ無法を、残念ながら、私たち日本の国は行っていた事実がある。そして、その無法にかり出された兵士で命を落とした人たちは、とても「英霊」とはいいがたい。だって、考えてもごらん。
 私のあなたの子どもが、ある国の兵士によって惨殺されたとしよう。そのとき、ある国が、その兵士を「英霊」としてあがめたてまつったとしよう。あなたは、ある国のその行為に平然としていられるだろうか。
 北朝鮮は、何人もの日本人を拉致した。その拉致した実行者や命令した人を北朝鮮が堂々とあがめ奉ったとした場合、もしあなたが拉致された子どもの親だったとしたら平静でいられるだろうか。
 A級戦犯とされる人たち(東条英機などの戦争の責任者)は、そりゃ、欧米列強からの自存自衛のための戦いを指令したかもしれない。しかし、同時に、日本に圧力をかけたことがなかった中国や韓国を侵略することを指令した人物でもあったのだ。
 欧米列強が、「総理大臣は、A級戦犯が祀られている靖国神社を参拝するな」というのであれば、「なにを言うか。お前たちのアジア侵略に対して、日本は自存自衛のために立ち上がったのだ」と言い返してもいいと思う。しかし、中国や韓国からの非難に対しては、自存自衛のためだったとは決していえない。
 少なくとも、中国や韓国に出征し、そこで戦い、中国人などを殺害した兵士は、残念ながら「英霊」ではない。その兵士も国家の犠牲者ともいえるかもしれないが、犬死にした兵士としかいいようがない。全くもって無駄な死であったし、戦ってはならない相手だったのだ。自存自衛でもなく自由で平等な世界のためにたたかったわけでもない。
 靖国神社側は、この点を見落としている。15年戦争が、対欧米列強とだけのものだったというふうに一面化してしまっている。
 大事な肉親、夫、子どもを戦争で失い、靖国神社にはそういった人たちが祀られていて、バーチャルではあるが、そこに参拝することで彼らと出会えるという人たちの気持ちはとてもわかる。だからこそ、外交問題となって、当該国から遺憾の意を表明されることがないような「祀るあり方」を工夫する以外にないではないか。日本兵に肉親を惨殺された中国や韓国の人たちがまだまだいるのに、彼らはケシカランと切り捨てていいのだろうか。戦死した自分たちの肉親を祀りたいという気持ちは大切だが、同時に、戦死した日本兵から惨殺された中国人たちがいることもまた事実なのだ。自分たちの視野だけでものごとを考えていってはならない。相手の国の人たちの気持ちもわかってあげなければならないと思う。
※BGMはインターナショナル.靖国神社であってもインターナショナルな視点から考えていくべきだと思う.靖国とインターナショナル、妙なとりあわせだが、ひょっとしたら、もっともふさわしいのかもしれない.

 蛇足だが、私は、神道そのものは、けっこう微笑ましい宗教だと思っている。天照大神などの神話は、実に人間っぽい。男神が結婚するとき、美女の女神と一緒に醜女も受け取らなければならなかったあたりの心境や、隠れた天照大神を引き出すときの踊りは、これはヌードショーの記述でもあって、性的にもなかなか奔放だ。ギリシア神話も実に人間っぽいが、神道の神話も負けず劣らず人間味にあふれている。
 一方、一神教のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、自分たち以外の神を認めず、人間社会から超越し、人間を支配する構図があって、ちょっと息がつまりそう。