No.96 同性愛差別に怒るパリ市長
同性愛差別に怒るパリ市長
つぎの記事が、2005年10月8日付朝日新聞夕刊にでていた。
駅掲示拒否にパリ市長憤慨
男性同士や女性同士がキスするポスターを地下鉄駅に張るのはまかりならぬ。最近、そんな御法度令が出たフランスのパリで、ベルトラン・ドラノエ市長(55)が「同性同士のキスぐらいで検閲が正当化されてなるものか」とかみついた。
同性愛者団体の催しの宣伝ポスターだったが、パリ交通公団の広告担当部門が「家族の伝統的価値を重んじるグループを刺激するおそれがある」として掲示を拒否した。
ドラノエ氏は自ら同性愛者であることを公表した後の01年に市長に当選。社会党の次期大統領候補にも名前が挙がるなど今なお人気は高い。
02年に同性愛者嫌いの男に刃物で腹を刺された体験もあるだけに我慢がならなかったらしく、「こんな差別的な決定は許し難い」と口調は激しかった。
←2005年8月中旬、渋谷で行われた東京レズビアン&ゲイパレード.私と同じ地域の教員が中心になってがんばっている
一方では、パリ交通公団の同性愛への差別的な対応についての記事でもあるのだが、別のみかたをすると、パリという大都会の市長(日本でいえば東京都知事にあたる)が、同性愛への差別対応について、はっきりと「そんなのはおかしいではないか」ともの申しをしている内容でもある。
パリ市長は、当地で行われているレズビアン&ゲイパレードでも先頭に立って歩いているという。自分の性的なあり方をはっきりとカミングアウトして※マイノリティの運動を堂々と支援する態度は、やはりヨーロッパの民主主義の奥深さを感じさせる。
※ちなみに、ドイツのベルリン市長も同性愛者であることをカミングアウトしている.ヨーロッパではこのようにはっきりと「自分」を主張する人権感覚が見受けられるのだが、一方では、パリ市長が暴漢に襲われたりするなどのヘイトクライムも社会のなかにかなり残っている(この点ではアメリカも同じ).一方、タイでは、はっきりした人権の主張という行為も少ない反面、同性愛を含めて、性的な少数者が嫌悪されず普通に社会のなかで暮らしていける雰囲気がある.どちらのあり方がいいのかということについては判断はなかなか難しい.
「家族の伝統的価値を重んじるグループ」、つまり、伝統的な古色蒼然とした性観念をふりかざして、マイノリティの人たちの気持ちなどにこれっぽっちも思いを馳せない言論はどこにでもある。フランス革命やルソー生誕の地で、民主主義の発祥の地のひとつであるフランスとても、決して例外ではないということだ。問題は、そういった、少数者の気持ちを汲み取ろうという温かさもない攻撃に対して、政治家が毅然として反論しうるかどうかである、と思う。
日本でも似たようなことはあるというか、ほとんど同じ構図があった。
札幌で開かれたレインボーマーチ(性的マイノリティの人たちによるパレード)に、札幌市長が出席し、性的少数者の人権しっかりと考えていかなければならない旨をのべ、「来年はもっと仲間を連れてきてください」とエールを送ったことに対して、世界日報という保守反動的な新聞は、次のように論評している。
現職市長がこうした集会に参加し、お墨付きを与えたことについて、市民からは「非常識だ」「家庭破壊を助長する」と危惧(きぐ)する声が出ている・・・・
世界連邦北海道の荻野忠則代表は「宇宙は古来よりオシベとメシベ、オスとメス、男性と女性という成り立ちの中で種を保ち、家庭を維持してきた。それが自然の摂理だ。同性愛者には同情する何ものもない」と反発する。←パレードには、それぞれに趣向を凝らした衣装で集まる.これを「気持ち悪い」とみるのは自由だが、それでも、あなたの隣人として認めていくことが共生なんだと思う
古来よりだとか、自然の摂理だとか、家族の維持だとか、一般の人が歴史に詳しくないことをいいことに、ウソを平気で言いそして論評する。
生物界が「オスとメス」で成り立っている?? いい加減なことを言わないでほしい。オス・メスがない単性生殖をする生物の方が個体数いうとはるかに多いということをなぜ隠すのか。異なった性があった方が進化にとって有利であるということから、高等生物では異なった性をもつことになるが、それでも、性が固定化していないことは多々ある。
人間社会だって、古代ギリシア/ローマ時代、同性愛は別におかしなことでもなんでもなかった。性はかなりオープンに語られていた。日本でも、江戸時代まで、性のオープン性はかなりあった。男性と女性との関係性を厳しくしたり、家族や自然の摂理などという論理は、キリスト教の広がりとともに、民衆支配とも絡みあいながら、そのような道徳観念を広げてきたのであって、「古来から」というのは全くのウソなのだ。
「同性愛者には同情する何ものもない」・・・・なんたる言いぐさか。
これを書いた「あなた」は異性愛者かもしれない。それでは逆のことを考えよう。
異性愛者のあなたが、同性愛者が大半だという社会に住んでいたとする(架空の物語だが)。そのとき、同性愛者側から「異性愛者には同情する何ものもない」と言われたとしよう。そのとき、あなたは、どれほどの苦悩とつらさを味わうことだろうか。少数者の側にいるということは、それはたまたまそうなったにすぎない。たまたま少数者側だったがゆえに、同情する余地はないと言われ突き放されたとしたら、この世界で生きる希望すらなくなっていくだろう。
世界日報紙の「あなた」には、ぜひ、立場を逆にしてものごとを見るということを、ぜひやってもらいたい。
少数の側にいるという苦しみ、苦悩に思いを馳せる想像力をぜひもってもらいたいと思う。
←ご存じの方も多いキャンディ・ミルキィさんもいらっしゃっていました
さて、残念なことに、性同一性障害の人の中に、同性愛者を嫌悪したり、自分は彼らとはちがうということをことさらに主張したりする人がいる。さらには、男性と女性という2元的価値観をそのまま受け入れるという人たちもいる。自分たちがマイノリティのポジションにいることを認めたがらず、「自分たちは病気だ。したがって、手術という治療を行い、戸籍を変更したら、自分たちは多数派(マジョリティ)の男女の枠内なのだ」と主張してはばからぬ人もいる。
こういった人たちにとっては、上記の世界日報の記事内容もスッと受けとめられるだろう。マイノリティの苦悩を共有する姿勢がない。「病気−治療−戸籍変更−多数派の枠」という流れに乗るだけでは、性的マイノリティ差別のなかに絡めとられてしまう。
どこの国にも、伝統的家族観とか、男女の2元制、自然の摂理を説く保守系の側が存在する※。
※おもしろいことに、この面では、共産主義者の側もそうであった・・・・同性愛を資本主義の病だなどという見方もなされていた.保守主義と共産主義との間の奇妙な一致.ともに、多様性とか多様な生き方に対しては消極的であること、価値観の多様性への嫌悪という共通項(北朝鮮を考えればわかる)があるからだと、私は考えている・・・・たとえば同性愛は資本主義の病だなどという見方がなされていた.愛国心や国旗・国歌を強制しようとする人たちは、実は共産主義者と同根なのではないだろうか.彼らは北朝鮮を嫌う人が多いが、近親憎悪ということはよくあるわけで、国家への忠誠を国民に強いる金正日と、日本での「愛国心や国旗・国歌を強制しようとする人たち」とはどこがどうちがうのか、私には理解しがたい.私には、金正日と二重写しになってみえてくる.
パリ市長はフランス社会党の所属のようだ。フランス社会党は、ドイツ社会民主党とか、スウェーデン社会民主労働党などと同じく、社会民主主義という立場のグループに属する。このグループは、価値観の強制や、国歌としての一元的な価値基準には否定的で、多様性や多様な価値観を積極的に認め多様な人たちが共生していく方向性を模索していく立場にたつ※。
※(補足)社会民主主義は共産主義とは考え方の基盤を異にする.社会民主主義と共産主義の党派が仲が悪いという背景にはこういったことが潜んでいる.アメリカ国民は社会主義のにおいがする言葉は嫌いのようで、アメリカの民主党は、自分たちのことを社会民主主義とは規定しないが、社会民主主義的な政党と共通する政策は多い.日本では、社会民主党は言葉のとおり社会民主主義を基盤としている党だ.民主党については、党内の考え方にはかなりの幅があり一概にそうだとはいえないが、社会民主主義とも親和性はあるだろう.社会民主党の前身である日本社会党には、党内には、マルクス・レーニン主義を基盤とする勢力もけっこういた.その時代には、労働者の側にたってたたかうという彼らが果たした役割には捨てがたい大きなものがあったが、同性愛を資本主義の残滓とみるとか、価値観の多様性に対して冷淡であるとかいったように、社会民主主義とは相容れない部分もけっこうあった.現在の社会民主党は、こういった負の側面については清算されていると私は思っている.日本共産党は名前から推し量ると共産主義の政党ということになるが、現在の日本で、多様な生き方や多様な価値を否定することになれば、それは革新政党の資格をもたないことになるわけで、公式には、多様性を承認している政党であり、その意味では、旧来の共産主義型の政党とは異なっている.ただ、分派、派閥を許さないという民主集中性が、真に党内だけの原理であって国民全体には適用されないということが本当にそうであるのかについては、しばらくは様子を見る必要はあるだろう.派閥・分派を禁じるという民主集中性は、小泉自民党もまさに今回それを実現しようとしたわけで(分派行動をした者には刺客を送った)、これは共産党だけの特質ではない.しかし、マルクス・レーニン主義を国家原則としなかった政権政党としての共産党(野党ではなく)はこれまで存在したのかということになると、はなはだ暗澹たる気持ちになってしまう。保守政党であれ共産主義政党であれ、どういう政党でも、私は頭から忌避することはない.「多様性の承認」をする政党であれば、どういう政党であっても応援したい.しかし、特定の価値観や国家観、性の観念を強制する人たちとはたたかっていかなければならないと思う.マイノリティの生存条件は価値観や性の観念の強制を否定したところにあるわけだから.
たぶん、保守系の側とは考え方を異にしているだろう(もっとも、保守系にもいろいろあるが、ここでは、「伝統的価値」「男女の2元制」を重視する立場を保守系と呼ぶことにする)。
私は、少数派の人たちが自分らしく生きていくことができる社会になるということは、価値観の多様性に積極的である立場にたつグループを強くしなければならないのではないかと思う。そうでなければ、マイノリティは、自分たちのよってたつ基盤がなくなってしまうからだ。多様性が承認される社会にこそマイノリティの生存条件がある。しかし、どうも、現在の日本は、これとは逆の道を歩んでいきつつある気がしてならない。
多様性や多様な価値観を大事にする人たちが、政治のなかで、ぜひ大きな力になってくれることを望みたい。パリ市長のような立場をとる人たちが、政治のなかで、大きな存在となる国になってほしいと願っている。