No.89 「中途半端」な人たちの居場所の悪さ

 中学生のころから「女装」を始めた私は、高校生のときに初外出。大学時代はニューハーフのお店でアルバイトするなど、当時は、この道での先駆者というか先進者だった(のだと思う)。ニューハーフの人たちの中には豊胸手術をするなどの人もけっこういたが、そういう人と私とで、どちらが正統だなどということもなく、自分が中途半端であるというような感覚になったことはなかった。
 状況が変わってきたのは、20世紀も終わりの頃、性同一性障害というネーミングが医学現場の外まで広がってきて、当事者はもちろんマスコミなど一般社会でも使われるようになってきてからである。
 ホステスやダンサーなどの接客業に就いているニューハーフの人だけではなく、一般の仕事をしている人も「当事者」を語るようになり、そういった人たちも、女性ホルモン剤の服用を始め、乳房がふくらんでくる人も増えてきた。さらには、それ以上の段階、性別適合手術(性転換手術)を行う人も、決してめずらしくなくなった。
 このような時代になってくると、性転換手術まで進まない、さらには、乳房を持つにはいたっていない人たちは「いまだ低い段階にいる」というみなされ方が生じてくる。男性から女性に変わるには段階があって、女装→乳房を持つこと→女性器をつくる、というふうに「進んでいく」ものだという考え方が、当事者のなかでまことしやかに語られるようになってきた。「私は、この段階まで行ったのよ。あなたも頑張ってね」というように、段階は進んでいくものだという理解が、なんとなく生じてきた。
 そうなると、女装にとどまっていて、それより先に進まない人は、途中の段階だということになってしまい、そのような人にとっては、自分は中途半端なのだという気持ちにさせられてしまうという現実が起きている。これは、少なくとも、1990年の初めごろまではありえなかった状況である。
 変化していくことを段階的な理解としてとらえるということは、男性と女性の2元論でみていることに他ならない。男性という一方の側から、ひとつひとつの段階を経て女性という側になっていくというとらえ方である。それは、性というものはどちらかであって、完全な男性か完全な女性かの2つなのだという見方だといえるだろう。もっとも、染色体レベルまで考えれば、男性が外見の性を変えたとしても「完全な女性」になることはありえないだろうが、少なくとも、こと身体的な外見については「完全な男性」か「完全な女性」かの2つで判断するということである。
 今は、どのような医学技術をもってしても、性転換した男性が子どもを産める段階ではない。しかし、もし、子どもを産める医学技術が開発されたとしたら、今度は、その段階までいって初めて「女だ」ということになっていくのではないだろうか。
 2元的に考えるということは、必然的に、子どもを産むことができない女性、または産まない女性を、「女性として中途半端だ」という意識に導くことになる。現に、子どもを産んでいない女性は女性にあらずというような、問題的な発言をした政治家もいた。
 まったく、中途半端であることは、なんと生きにくい社会なのだろうと思ってしまう。
北海道小樽市、小樽運河の横で撮影(2005.5.21).本文とは直接の関係はありません.

 戸籍の性別変更についても、2元性をさらに固定的にするという効果を持つ。
 外見上は女性の姿をしているけれど、戸籍の性別は「男」。これだと、社会生活でいろいろと不都合があるため、外見で判断される性別にあわせて「女性」と変えてしまえば万事解決だ、というわけである。男か女かよくわからないけれども、そういう人がいてもいいじゃない、というような社会の理解を生み出そうとする効用はない。要するに、「はっきりさせよう」ということなのだ。
 「中途半端」な人にとっては、ますます住みにくくなってしまいそうな気がする。
 いったい、人間の性って、いろいろな側面から考えたとき、男と女というふうに、きれいに2つに分けられるものなのだろうか。
 生物学的な性で考えたとしても、インターセックスといわれている人たちは、生物学的に必ずしも「どちらの性だ」とはっきりなるわけではない。しかし、人間社会は、中途半端な性だと住みにくいため、「一応、(男/女)性にしておいた方が問題が少ない」ということで、どちらかの性として戸籍に登録することになる。
 性の概念を、生物学的な性ばかりではなく、性自認(心の性)や性的指向(どういう性の人を好きになるか)まで広げて考えれば、完全な男のパターンとか完全な女のパターンなどといったことは、むしろ少なくなってくるともいえる。そうではあっても、戸籍が男性ならば男のパターンに合う生き方をしなければならないし、同様に、女性の場合もそうだ。
 いろいろな意味で性を変えて生きようとする人たち(ここではトランスジェンダーとしておく)には、100人100様のあり方があるのだが、多様なあり方を同列にみていくのではなく、典型例が幅をきかせている。性転換手術を求めない人(さらにはホルモンも求めない人)はトランスジェンダーとして「中途半端」だという意識を生み出していることはないだろうか。

 発想を変えてみたらどうだろう。
 「中途半端」とみるのではなく、ひとつひとつの性のあり方が、その人にとっての「完成品」であるという見方をしてみたらどうだろう。
 性転換手術を行う人と「女装の人」は、これは、段階のちがいではなく、その人の性のあり方のちがいだということ。完全な男でも女でもないという「あり方」は、それがひとつの「完成品」であるというとらえ方をしたらどうだろうか。
 性別欄には男性に○印がつけてあるけど女性みたいだよねえ、でもいいじゃない・・・・こんな感覚に。社会全体がなっていくことが、これが、どんな人にも住みやすい社会ということではないだろうか。もちろん、こういう状況になったときには、これまでの男性/女性の関係性とは大きく変化するのだと思うが、別に変化したとしてもどうということはないはずだ。
 たぶん、「男は女性を守り、さらには国家を守る」などといったマッチョな価値観は薄れていくだろうが、それでいったい誰が困るというのだろうか。私なんかは少しも困らない。困ると思うのは、そういうマッチョな価値観でないと居心地が悪いと思いこんでいる人たちではないか。
 うーーん、わかった。そういう人たちにはぜひ言いたい。
「男は女性を守り、さらには国家を守る」というようなマッチョな価値観の方が居心地がいいという人には、現に、そういう価値観だと居心地が悪いと思って苦悩している人がいるということに思いを寄せる心を持ってほしい。
 自分の価値観にあった社会でなければ困るというのでは、あまりにも身勝手な言い分ではないだろうか。そういうのを利己主義だと人は言う。
「だったら、中途半端でもどっちつかずでも住みやすい社会にせよというのは、アンタらの価値観を押しつけようとしているのではないか」と反論されるかもしれない。
 はい、その論理もよーーくわかる。だったら、それぞれの考え方や価値観の人たちがじっくりと話しあって、社会としては、適当な中間項で落ち着く以外にないではないか。自分たちの主張だけを100%通そうというのは、それはないだろう。
 とにかく、権力機構と結びついて、ちがった価値観の人に対して、自分たちの価値観を強制しようとすることだけはやめてほしい。あなた方の価値観は大いに主張してもらっていいが、私たちの価値観とも、中間項で折りあっていこうよ。権力をバックにして、ちがった価値観の人を排除しないでもらいたい。