No.88 女装する時間を持った大学の教授(亡くなられた先生を偲ぶ)
今まで、個人のプライバシーのこともあり、細かくは話してきませんでしたが、お亡くなりになった今、また、連れ合いの方ともお会いしたこともあって、先生を偲ぶ意味で、少しばかり詳しく書かせていただくことにしました。
←北大構内、クラーク博士像と並んで撮影.
5月下旬の週末、本当に久しぶりに札幌を訪れた。きれいでハイセンスなすてきな街だと思う。大好きな街だ。私の青春時代は札幌で育くまれた。出身は九州の熊本なのだが、大学は札幌にある国立大学に通った。卒業後、東京に居を構えると、なかなか札幌に行く機会がない。某先生(当時は北大教授)の遺作展の案内はがきを、先生の連れあいの方からいただき(この件で、このエッセイ書いているのだが)、急遽、久しぶりに札幌を訪れることになった。先生は絵心もけっこうあって、北大構内に咲く野草の花々を絵に残すという趣味を持っておられたようだったのだ。
千歳空港から連絡電車に乗り札幌駅に降り立つと、そこは浦島太郎の世界だった。パセオなどという洒落た駅ビルが建ち、横にはヨドバシカメラも進出している。「確か、線路を越えた跨線橋があったぞ」と見回したら、鉄道線路は高架化されている。ホッとしたのは、京王プラザホテルの回転ラウンジがそのまま残っていたことと、北海道大学の構内に入ると、昔のままのたたずまいがそのままあったことだった。
北大教授のこの先生のことを、私が2000年秋に出版した『私はトランスジェンダー』という本に少しばかり書いたのだが、当時はまだご存命であったため、大学名も、女装時の通称名も、個人を特定できることを伏せる必要から多くは書けなかった。今回、札幌で開かれた遺作展会場で、先生の連れあいの方にお会いして、先生のことをいろいろと話してきたこともあって、伏せておく必要性がなくなり、先生を偲ぶ意味も含めてあらためて書かせていただこうと思う。
この先生は、北大の教養部時代に、某理科系の科目を教わっていたのだが、その先生が女装される方であることは、教わっていたその時点ではわからなかった。今のように情報もなにもなく、しかも、地方の高校を出た私には、普通に働いている人で、しかも、大学の先生で、女装する人がいるなどということに思いをめぐらすことはできなかった。女装姿の先生は、お店での源氏名を〈みどりさん〉と呼んでいて、週に2度ほど顔を合わせてはいたのだが、ニューハーフ(当時はゲイボーイという呼称)と大学の先生という結びつきなどは当時の私の理解を超えていたこともあり、疑ってみる発想すらなかった。
←(写真左)私が札幌でアルバイトしていた「ゴールデンK」の室内.やっぱり若いときは痩せていたんですね(笑).この写真の撮影は20数年も前.
←(写真右)こちらのツーショット写真は、3年前に、「シーラカンス」の店内で撮ったもの.私とのツーショットで、隣に写っていらっしゃる方が、私が札幌のニューハーフのお店でアルバイトしていたときのママ.現在は、岐阜の柳ヶ瀬で「シーラカンス」を経営しておられる.
すでに、高校時代から「女装」をやっていた私にとって、室内でひとりで女装したり、外出したとしても、ひとりでブラブラするだけのことでは、性別違和感の自分の心を納得させることはできなかった。そこで、当時、札幌にあったゲイバー(※1)である「ゴールデンK」という名のお店(※2)の扉をたたき、そこのママにアルバイトさせてほしいとお願いし、週2回ほど働かせてもらうことになった。今でいうトランスジェンダーとしての私の原点はこのとき育った。私の原点も関係しているのだろう。「自分は性同一性障害だ」という人たちのなかで、接客業をやっているニューハーフ(ホステスやショーガール)を忌避するような言葉をはく人をみると、夜の仕事への偏見や差別を感じてしまい厭な気分になる。
(※1)今でいう「男性同性愛者=ゲイ」が集うバーのことではなく、今でいうニューハーフのお店。当時は、日本では、ニューハーフのお店をゲイバーと呼んでいた。
(※2)ママさんは、今でも元気に生きておられ、岐阜の柳ヶ瀬で「シーラカンス」というニューハーフのお店を経営しておられる。当時のママの源氏名はゴールデン圭子。カルーセル麻紀と一緒に、全国をショーで回っていたという。
ニューハーフ(ゲイボーイ)としてお店に出ていた先生、みどりさんは、どうもアルバイト代はもらっていない風だった。従業員として接客はするものの、他のニューハーフのように忙しく立ち回る風ではなかった。少しばかり怪訝には思っていたのだが、それ以上考えることはなかった。半年か1年ほどたったころだろうか。お店のママが「みどりさんは、アンタのところの大学の先生だよ」と私に話してくれたとき、私は脳天にショック受けるぐらいの驚きを感じた。しかも、後日、私が教わっていた先生だと知るにいたって、驚きが倍加すると同時に、他方ではなんだかホッとした気持ちに変わっていった。
当時、ニューハーフ(女装する人)というのは、テレビに出ているカルーセル麻紀さんみたいな芸能人か、または、夜の接客業をやっている人たちばかりと思っていた私は、大学生でありながらニューハーフのお店で働いている自分を「奇異な存在」なのだと思いこんでいた。しかし、大学の先生をしながら夜は「女性」としての時間を持つという、今でいうパートタイムのトランスジェンダーを目のあたりにみて、学生で女装する人がいてもいいのかもしれないなどと、自分を少しばかり肯定できるようになったことが、ホッとした気分に変わった理由だった。みどりさんの存在は、大学の先生じゃないけれども、高校教員という「先生稼業」をやりながらパートタイムで女装している私のあり方のモデルになったともいえる。ちがうところは、私の場合には、生徒に対しても自分のありようをはっきりと言っているということかもしれない。先生が生きていた時代と私が生きている時代との状況の変化がそこには横たわっている。
←北大の教授だった〈みどりさん〉.この写真は1999年の撮影.すでに退官しておられたが元気に現役で女装されていた.ゴールデンKのお店はすでになくなっている.
みどりさんの場合は、お亡くなりになるまで、女装するという自分のことはずっと隠し続けておられた。女装姿の写真などは、ご自宅には置いていないか、あるいは、わからないところにしまってあるのか、少なくとも、連れあいの方は、今のところ遺品として発見していない(私が持参した、みどりさんの写真で、先生の女装姿を初めて見られたとのこと)。たまたま、私が先生に出した手紙が、先生遺品としてご自宅に残っていたようで、それを読んで、私に、遺作展の案内はがきを送ったという経過だった。今回、札幌の展示会場近くの喫茶店で、品よく凛と和服を着こなしていらっしゃった先生の連れあいの方とお話ししたのだが、このとは、私が出した手紙を持ってきて下さっていた。
先生は、ご自分の女装のことを、お亡くなりになるまで、連れあいの方にはずっと隠してこられたらしい。自分の連れあいは、女装する自分のことを知らないと思いこんでいたようだ。しかし、連れあいの方は、実は知っていたという。知っていても知らないフリをし続けていたと語ってくれた。
子どもさんが7歳のときに、先生が女装されるということを知ったとのこと。生きておられたら今年が金婚式だったとのことで、それからすると、40年ぐらい前のことになるだろうか。逆算すると1960年代だと推測される。当時は、性同一性障害の語もトランスジェンダーの言葉もなかった。ニューハーフという言葉すらなかった。そういう人たちの存在はまだまだ知られていなかった時代だった。まして、大学に勤務する自分の夫が女装する人だなどということを受けとめるのは、たいへんな時代だったと思う。もちろん離婚することも考えたという。
その先生は、家庭ではとても優しい方であって、また、勤務場所でも周りから好かれる柔和な人格であり、〈女装する人〉であるという1点を除けば、自分の配偶者として、すばらしき人であったのだと思う。「人様に迷惑をかけているわけではないし、なにも悪いことをしているわけではない」と考え、自分は知らないフリをしていこうと決心したようだ。親族に心理学者の人がいて、その人に、先生のことを聞いたとのこと。「この世には、そういう人もそれなりにいる。生育過程でそのようになる可能性がある※」との説明で、たぶん複雑な思いはあったのかもしれないが、先生のありのままを受け入れようと考えたのだと思われる。
※現在、性同一性障害は、妊娠中のホルモンの関係で、体の性と心の性がずれることがあるという説明がなされていて、この説がやや優勢ではあるようだが、生育過程に原因をもつのかどうかなど、まだはっきりした結論がでているわけではない。
先生は、自分が女装するときを持っていることを相手が知っているというふうには思っていなかったようだ。私にもそのようなことを言っていたし、お話しさせていただいた先生の連れあいの方も、自分が知っていることを相手は知らなかったのではないかと話していた。「自分のことは隠し通した」と誤認識したままで天国に召されたということになる。
今回、初めて、連れあいの方とお話し、私が知っていた事実と符合することが多々あった。先生は、週に2回ほど、ゲイバーのお店に出ていらっしゃったのだが、こういう日は、自宅に帰るのは深夜になる(深夜に帰ってくることについては、学者はいろいろと研究で遅くなることがあるのだろうというような認識だったとのこと)。連れあいの方が言うには、週に何回か深夜に帰宅していて、そのような日にかぎって、日頃は入浴を億劫がっていた先生が、玄関を入るや、まずは浴室に入浴に行っていたというのだ。私との話をつきあわせると、化粧の残りやさまざまな痕跡を消すための入浴だったのだろうと推測される。
先生は、北海道の白老町に別荘を持っていらっしゃったのだが、ここに、ゲイバーのスタッフともども泊まりに行くことがあったようだ。連れあいの方が言うには、誰かが泊まった状況を知っていたけれど、しかし、そのことを追及することはなかったとのこと。 「(先生の女装について)知らないフリ」をしつづけることが、夫への思いやりなのだと考えていたのかもしれない。
←現在は「女性としての自分」というときを持ちたければ、このようなスナックに行くこともできる.もちろん、ここにいる方々には、日常的にも、別の性で生活している人もいる.トランスをめぐる状況は〈みどりさん〉が人生を過ごした時代から大きく変わっている.この日は、札幌で活躍しているトランスのみなさんと1次会として交流会をしたあと、2次会で、札幌すすきのにある「ミックスナッツ」というスナックに行った.この写真はそのお店で撮したもの(2005.5.21撮影)
女装姿を撮った写真は、家族の目につかないようにしっかりと管理されていたようで、未だもって見つかっていない。私が手紙に同封して送った〈先生の女装姿の写真〉についても、それだけが抜かれていて、私からの手紙だけについては遺品の中から出てきたという。研究資料のなかに挟み込んであって、ひょっとして、勤務しておられた北海道大学構内のどこかに潜んでいるのかもしれない。
日頃、男モードで勤務し、週末に女性モードになるスタイルの人であっても、今は、さほど隠し立てせずにやっている人も多い。職場で自分から言うわけでもないけれど、うすうす知られているだとか、あるいは、けっこう周りは知っているだとか、秘密性はそれほどなくなってきている。時代が大きく変わってきたと、私自身も肌身で感じる。しかし、先生が生きた時代の大半はそうではなかった。「今の方が望ましい時代だ」というのはたやすい。しかし、配偶者にすら隠しながらも自分の性のありようを追い求めていく「作法」のなかには、オープンではないがゆえに生み出した文化もあったのではないだろうか。
トランスジェンダーをめぐる「隠さなければならなかった」時代は終焉を迎えつつあるといえるだろう。私たちも、当たり前に生きていくことが「権利」として受けとめられる時代になっていきつつある。
トランスする(性を移行する)あり方で、自分の前半生を「隠さなければならなかった時代」に生き、そして、あとの半生を「当たり前に生きていける権利を持つ」時代に生きようとしている私。時代の大きなうねりのなかで、私もまたとまどい、若い人たちの新しい感覚についていけなくなりそうにもなることがある。私に大きな影響を与えて下さった〈みどりさん(女性のときの名前)〉たちの時代が体験してきたことのうえに、これからの「当たり前に生きていける権利を持つ」時代が生み出されたのであって、〈みどりさん〉たちの時代がなければ、今のようなあり方を享受できる時代は存在しない。その両方を生きているものとして、過去の時代の体験と、過去からくみ取るべき教訓とはなんなのかといったこともあわせて、後進の人たちに伝えていこうと思う。またそのことが、両方の時代を過ごしてきた私の仕事なのかもしれないなと考えている。