No.87 あなたの性のあり方は「中途半端」なんかじゃない
先日、知りあいの女性教員から依頼があり、3人の定時制の高校生と会う機会があった。
3人の性のあり方が、これがまた三様で(当たり前なのだけど)、あらためて「性の多様性」を思い知らされたのだが、同時に、現在の日本での性同一性障害やトランスジェンダーの概念をめぐる問題点を浮き彫りにした会話があった。
10年前は、性同一性障害の言葉もトランスジェンダーの言葉も、ともに一般化されてはいなかった。男性同性愛者(ゲイ)とMTFトランスジェンダー(体は男性であるが女性でありたいと考える人)との区別も曖昧で、両者ともに「おかま」と称される場面もあった。この場面は、往々にして、当事者を侮蔑するときに使用されることが多かったのだが、本人も、自分のことを「おかま」と称することもあった。比較的年輩の方のなかには、今でいうゲイを指す男性同性愛者の呼称をホモ、MTFトランスジェンダーや女装者のことをナルシストと呼ぶ人もありはしたが、厳密に区別して使っていたわけではなかった。
セクシュアルマイノリティ(性的少数者)を、要するに十把ひとからげで呼称し、当事者も、それぞれのちがいをそれほど意識させられたりすることは少なかった。悪くいえば「自分たちはみんな変態だ」というようなことだったのだろうか。
それぞれの要求も、求める性の態様も、それぞれにちがうのに、十把ひとからげで呼称されるのには無理がある。科学的にみても、しっかりした基準のもとで名付けられた呼称が生まれてくるのには、それなりの理由があったといえよう。区別されて認識されるようになったことは、ある意味では「進歩」なのだが、「進歩」は同時に問題点も生み出していく。ここでは、性同一性障害の分野にしぼって考えてみよう。お会いした高校生は、体の性でいえば「女子高生」なのだが、ありていな区分法でいえば、体を逆の性に変えてしまうことを願うトランスセクシュアル(TS)、体を変えるというよりは生き方として逆の性であることを願うトランスジェンダー(TG)、それに、たぶんに女性同性愛者(レズビアン)だと思われる生徒、この3名だった。
このなかで、TGの生徒が次のように言ったのだ。
「私は、体を変えたいとまでは考えていない。でも、男性でありたいし男性として生きていきたいと思っているので、私は中途半端な人間だ」
それを聞いた私は、TSやTG、TVといった厳密な区分が、当事者にも知れ渡っていくなかで、「正統な性同一性障害の人」と「中途半端な性同一性障害の人」という全くもって誤った理解を生み出しているのではないかと、その深刻さに驚かされたのだった。
←アウシュビッツ(ポーランド)内のガス室跡.「正統」ではないとみなされたユダヤ人や同性愛者は絶滅の対象とされた.人間を正統や中途半端として区分しだすと、極端にすすんだいきつく先は、正統ではない人物をガス室送りにするいうことにだってなってしまいかねない.
私は、日本のこの方面での医学界の言説も、こういった「正統」と「中途半端」の意識をつくりだすことを後押ししたのではないかと思っている。精神神経の医学界で、体を変えようとする人たちを《中核群》と呼び、別の性で生きたいと考えるが体を変えたいという欲求が小さい人たちを《周辺群》あるいは《縁辺群》と呼びあらわしているという実態があった。医学界では、かりに、《中核群》《周辺群》という区分が正統と中途半端を指すことではないという理解であったとしても、この呼称は、医師を離れ当事者の間で一人歩きするようになったときに、それが「正統」と「中途半端」という理解に変わっていくことは想像するに難くない。
体の変更を求めなければ、あえて医者のところに通院する必要性はない。自分がなにものであるかの不安を取り除くためのカウンセリング的な通院はあるだろうが、必要性ということでいえば、例えば「女装するのに医者の診断書はいらない」といったところだろうか。当然にも、「体の変更を求めない」当事者ではなく「体の変更をしたい」当事者が、必死思いで精神科医の門をくぐることになるはずだ。こういった人たちは、その次のステップとして、性別適合手術(性転換手術)を行うために整形外科医の門をたたくことになる。
これまで(1998年まで)、公には、日本では性転換手術を行うことはできなかった。そのために苦悩する当事者がいたため、そういった人たちをなんとかしたいという医者の良心が、いきおい、「体の変更をしたい」当事者を中心に考えるようになったことは理解できる。しかし今は、性転換手術が「解禁」されてから7年経った。この間には、戸籍の性別ですら、極めて高いハードルではあるにしても変更できるようになった。このような状況の変化があると、これまでは、人の目という世間や家族への気兼ねから、自分を押し殺してきたさまざまなパターンの「(体の性ばかりではなく多様な意味でも)性を変えたい」人たちが、自分が生きたいありようをありのままに出そうとするように変化してきたともいえるだろう。7年前とは状況が変わってきたのだ。
《中核群》だけに目を向けていればよい状況ではなくなっている。医者が、これまでは《周辺群》と呼んでいた人たちも、自分の本来のありかたを求めるようになってきている。こういった状況で、「自分は中途半端だ」と思わせる認識につながっているとしたら、これはよくない。なにが《中核》で、なにが《周辺》かという分類は、たまたま、そういうことを考えた医師の認識でしかない。認識が変われば、何が《中核》と《周辺》かということも変わってくる。
私は、「体の変更を求める」人が中核的だとは思っていない。逆の性役割や服装などに「こだわり」を持つことも、認識の視点を変えれば、今度はこちらが中核的ということもできるはずだ。だから、《中核》《周辺》という分け方じたいを、もはや変えて認識しなければならない時代になっているのではないだろうか。
「体の変更を求める」人も、逆の性役割や服装などに重点をおく人も、それぞれは並列の位置関係であり、当然ながら、どちらが「正統」で、どちらが「中途半端」などということはありえない。強いて言えば、どちらも「正統」なのである。
WHO、世界保健機構が定めたICD-10の疾患分類で、性同一性障害(F64の分類番号)の項目のなかに、性転換症(F64.0)と並べて両性役割服装倒錯症(F64.1)という小項目がある。両性役割服装倒錯症というのは、逆の性の服装を求めるが体の変更を求めることがないものという説明がついている。くだんの生徒が両性役割服装倒錯症というわけではなだろうが、少なくとも、性転換症だけがクローズアップされてきたこの7年間の状況の変更は求められるのではないだろうか。
性同一性障害のあり方は、決して、性転換症タイプだけではない。それ以外の人たちを周辺群などとみなすのではなく、並列したあり方として、別のタイプであるという認識が広がってもいいし、また、広がっていく必要があると、私は思っている。
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これに対して、性転換症のように手術を必要としないタイプの場合は、医療機関に診せにいく必然性はないので、「自己の生き方」としてのトランスジェンダーの概念をあてはめるべきだという考え方もある。この考え方には一理はあると思うし、決して、この考え方を否定しようとは思っていない。むしろ、心情的にはこちらの方にも傾くかもしれない。
性同一性障害を疾患だとみなすのも、これもおかしな話だ。以前は、同性愛も疾患とみなされ、現に、ICDの旧版には疾患として分類されていた。しかし今では、同性愛はいかなる病気でもないとみなされるようになっている。性同一性障害も、考え方としては、この方向に進んでも少しもおかしくない。ただ、同性愛とちがって、とくに性転換症の場合には手術を必要とすることもあり、疾患とみなされなくなった場合には、健康保険の適用も海の藻屑と消え、多額の費用を支払わなければならず、結果として、金持ちにだけ許される手術となりかねないという危惧がある。
理論上の整合性と、現に生きている「生身の人間の幸せをどうするか」という実際上の扱いとの間で、やや難しい議論が生じることはありえる。
このあたりの議論は別の機会に譲るとして、(いろいろな意味で)逆の性で生きたいと考えているが、しかし性転換症ではないタイプの人たちに対して、「あんたはトランスジェンダーだ、性同一性障害というような医療概念にとらわれるな」と主張することに、私はたいした意味があるとは思っていない。タイプのちがいでもって、医療概念にくくるかくくらないかなどは、なんとまあ「厳密な分類」を強いるのだろうと思ってしまう。
性転換症かそうでないかなどの分割線が、そう簡単に引けるのだろうか。性器の変更は求めなくても膨らんだ胸はほしいとか、女性の顔に見えるように男的なごっつい顔つきを変えたいとか、体の線に丸みを帯びさせたいとか、さまざまな中間項があり、現に、そういう中間項を実行している人を何人も知っている。だからといって、その人は、日常的に女性として生活しているわけではなく、週末に女装することで心を落ち着かせようとする人たちでもあったりする。「厳密な分類」をすると、すぐにその分類にはあてはまらない「中途半端」が生まれてくるものなのだ。
とすると、今度は、性同一性障害という疾患でもなくトランスジェンダーという「生き方」でもないという人たちが「中途半端な自分」という意識を持たせられるということになるのだろうか。とんでもない話だ。厳密に分けて考えるという路線は、必ずやほころびを生み破綻をきたしていく。
性同一性障害に対してトランスジェンダーの概念を対置させ、正統かそうでないかという階層構造を撃とうとする人たちは、今度は、性同一性障害という正統でもなくトランスジェンダーという正統でもない「中途半端な私」を生み出そうというのだろうか。
性のありようは、もともと分けられるものではない。ただ、人間はカテゴリー化しなければものごとを認識しにくいという特質がある。別の言葉でいえば、科学はカテゴリー化の流れであったともいえる。分類して理解するというプロセスを否定することはできない。だからこそ、同時に、きれいな分割線で分けるという思考ではなく、分けるというプロセスを踏みながらも分け方はグラデーション的であるのだという理解を持つことが必要なのではないだろうか。
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自分のことを「中途半端」と言っていた高校生には、「決して、あなたは中途半端ではないんだよ.中途半端だと思わせているのであれば、そういう雰囲気を生み出した状況の方に問題があるんだよ.あなたは、隣のTSと人と並列の『あなたとしてのひとつのあり方』なんだよ.決して中途半端なんかではないんだよ」と話してあげた。
一緒にいた知りあいの女性教員も、この点は私と全く共通する。フェミニズムを学んでいる方は「あなたとは誰かをありのままに受けとめていく熱い共生の心※」を理解しているだけあって、決してフェミニズムからアプローチしたわけではない私の「多様な性」の考え方ともスッと一致する。
翌日、この高校生からメールが届いた。そこには、次のようにあった。
「中途半端な体だと二度と考えないようにします」
うれしかった。中途半端な自分ではなく、自分をかけがえのない自分として肯定し、「中途半端な人なんていない、誰だって正統なんだ」と思ってくれる人が増えたことを、私は無邪気に喜びたい。
※この言葉はフェミニズムの要諦だと聞いたことがある