No.86 中国のみなさんへ 〜日本の多くの教員は変な歴史認識は持っていないはずです〜
最後の方に、このエッセイを読まれて、私にメールを下さった方のコメントを掲載しました
日本語がわかる中国の方は、ぜひこの私の小論を中国語に訳して、周りの方に読んでいただきたいと思います。
最近。中国各地で起きている「反日デモ」がさらに広がりをみせていることに、たいへんな憂慮をしています。私は、デモを行っているみなさんがケシカランだとか、また、中国政府の対応がよくないだとかの立場で発言するつもりはありません。今後とも、中国国民のみなさんと、私たち日本人が、近き隣人として相互理解のもとに仲良くやっていきたいという気持ちが第1です。第2には、私も、高等学校の現場で社会科の教師をしていますが、私を含めて多くの歴史や政治経済を教えている教員は、みなさん方が心配するような「歴史認識の改ざん」に与してはいるわけではなく、一部の政治家や右翼・反動的な人たちが、最近、声を大きくしてきているだけだということを、正しく知っていただきたいと思っています。「新しい歴史教科書をつくる会(以下、つくる会と表記)」編の一部の教科書では「歴史認識の改ざん」をやっているかとも思いますが、日本国内の社会科の教員で、この「つくる会」編の教科書を支持する人はほとんどいません。逆にとても批判的に見ているのが実情です。一部の政治家の姿勢や新聞報道などで表に現れ、みなさん方が耳にする「歴史認識の改ざん」の話は、実際の日本国内の教育現場ではほとんどありえないということを、みなさま方には正しく知っていただきたいと思います。
私は戦後の生まれです。そして、現在、小・中・高で歴史を教えている教員も、ほとんど全員が戦後の生まれか、かりに生まれは戦前だとしても、戦後の教育を受けてきて、現在、教壇に立っている者です。
私たちひとりひとりには、過去の日本が起こした侵略戦争についての責任はありません。生まれてもおらず、またたまたま日本人に生まれてきたというだけで責任を負わされるわけはありません。しかし、日本人として生を受けた以上、過去に日本が行った侵略戦争についての歴史認識を、自民族中心のとらえ方(エスノセントリズム)ではなく、他の国民の立場も含めた複眼的な見方でしっかりと学んでいきたいと思っています。そして、誤りを2度と繰り返すことのないように、絶対に他国に兵を進める侵略的な態度をとることがない平和国家の形成者でありたいと思っていますし、教えている生徒にも、そういう姿勢をもつ国民になってほしいと思っています。
私が所属する教職員組合(日本教職員組合の傘下にある組合)は、結成以来のスローガンとして「教え子を再び戦場に送らない」ことを掲げ続けています。私はこのスローガンを誇りに思い大切にし授業での指針にしています。「教え子を再び戦場に送らない」という意味は、自分たちが戦争の被害者にならないということと同時に、また、加害者であってもならないという強い平和主義の気持ちを表しているものだと思っています。
このスローガンについて、最近の日本国内の「左翼嫌悪」の風潮のなかで、「古くさい左翼用語」※という非難を浴びせる論調もありますが、多くの教員は、この言葉はやはり捨て去ってはならない基本だと思っているはずです。少なくとも、私の周りの教員はだいたいこの気持ちを誰しもが持っていると思います。戦争の問題を考えていくという平和学習は、日本の高校の多くの修学旅行のテーマにもなっています。
※「教え子を再び戦場に送らない」という言葉は、21世紀にこそ、世界のどこの国であっても実現していきたいまさに先進的な考え方であるのにもかかわらず、これを「古くさい」とする人たちこそに、復古主義的な国家主義の考え方が見え隠れしている.批判する側こそに古くささがある.左翼用語などと考えるところに、旧態依然たる左翼・右翼の2分法でとらえる世界観をもっているともいえる.
← 中国・シンセン市にて.この都市でも反日デモがあったという
中国のみなさん方には、こういった、実際の現場での「侵略戦争の実態を正しく知り、原爆被害国だけではなく、加害者としての日本の歴史を学んでいる」ことの事実もわかっていただきたいと思うものです。
私は、昨年、ポーランド南部の街、オフィシエンチムにあるポーランド国立アウシュビッツ博物館を訪問し、たっぷり1日かけて見学してきました。
現在のドイツ政府がこの博物館の維持管理費用への補助を行ったり、ドイツの大学生が、夏休み期間を利用して、広大な敷地の草むしりなどのボランティアに来ているとも聞きました。私たち日本政府は、中国の南京大虐殺の資料について、その維持になんらかの貢献をしてきたでしょうか。また、日本の大学生が、こういった資料施設を訪れ、そこから過去に日本がやった歴史を学びとることをやっているでしょうか。ドイツ政府は、ナチス時代の戦争犯罪人に対しては時効を停止し死ぬまで責任を追及するという姿勢をとってきたことに対し、日本では、太平洋戦争開戦時に東条内閣にいた大臣が、戦後になって総理大臣までなってしまうというように、戦争責任についての追及の曖昧さがありました。こういったことをみると、戦後のドイツと日本の姿勢のちがいを感じさせられてしまいます。 ドイツと比較して、こういった負の問題を持っており、そのことをとても残念に思っています。しかし教育現場では、ちゃんと日本の戦争責任や加害者としての歴史も教えていこうという教員は数多く存在しています。高校では、沖縄への修学旅行が流行っていますが、加害者としての日本の立場も含めて「戦争を考える」という平和学習をテーマとしての沖縄修学旅行であり、この流れは広がっているぐらいです。日本国民が背負っているのは負の課題ばかりではありません。戦後の日本国民は、珠玉の条文であると思っている憲法9条(戦争と戦力の放棄を含む平和主義条項)を含む日本国憲法をぎりぎり守ってきました。戦後60年、中国のみなさんもご存じの通り、日本は他国と一切の戦争をやっていません。今のところ(2005年4月段階)日本の自衛隊は、他国民を1人たりとも殺めていません。これは憲法9条の存在抜きにはありえなかったと思います。紆余曲折はあり、また、憲法9条を改悪しようとする危険な兆候はあるものの、日本国民は、なんとか平和主義を守ってきています。200近い世界の国家のなかで、この60年間、一切の戦争をしてこなかった国家はとても数が少ないと思います※。日本が、その数少ないひとつとして存在していることは、その国に住む国民にとっての誇りでもあるし、またこのことを、中国人の方にも正しく認識してもらいたいと思うものです。
※残念ながら、中華人民共和国の成立後であっても、例えば、ベトナムといざこざを起こしたり、中ソ国境での紛争など、中国は銃を発砲したことがあると思います。また、核兵器という大量殺戮兵器も所有しています.どんな理由をつけようとも、かりに自衛のためだと称しても、大量殺戮を目的とした核兵器を保有することは正当化できません.中国のみなさん方も、銃を発砲した過去や、自国の核兵器保有について批判的な視点を持ってほしいと思っています。
社会の成員にはいろいろな考え方の人がいます。ナチスの犯罪行為の責任追及に真摯にとりくんでいるドイツでも、全国民が反ナチス的な考え方を持っているわけではなく、ネオナチを称され、ナチスの象徴である鉤十字(ハーケンクロイツ)をこれ見よがしに振りかざす人たちも存在します。同様に、日本でも同じことがいえます。
南京大虐殺はなかったなどと主張する人たちもでてきました。「被害者の数が20万人というのは嘘だ、数万人だ、データがでたらめだ」と難癖つける人たちがいます。被害者数のデータには曖昧な部分があるかもしれませんが、しかし、南京大虐殺がなかったということではないし、数の曖昧さをことさらに出してきて、いい加減だとして事実を塗りつぶしてしまおうという姿勢に憤りを感じています。
どんなに言いくるめても、日本軍が、他国の領土である中国に兵を進め銃剣で他国の市民の脅やかしているのに、その侵略性を覆い隠すようなことは、歴史に不誠実だと思います。私たちは、ここをしっかりと直視していかなければならないし、また、そうしようと努力する教員はたくさんいます。いやむしろ、社会科の教員であれば、そのような姿勢をとる人が多数だと思います。
しかし、一部の反動的な学者たちが書いた教科書では「日本の戦争目的は,自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し,そして,『大東亜共栄圏』を建設することであると宣言した」「日本の緒戦の勝利は,東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ」というふうに、エスノセントリズム的に偏狭な視点で記述されています。欧米の国々が帝国主義的にアジアの国々を植民地化していった張本人であることはその通りです。しかし、日本も、遅れて発達した帝国主義国として、欧米が持っていた中国での権益を奪い取るべく、まさに帝国主義的に中国に軍隊をすすめていったというのが、日本の多くの社会科教員がもっている歴史認識だと思います。決して一部の政治家や反動的な学者の言説を支持してはいないと信じています。
日本で、歴史教育に携わる多くの教員は、中国のみなさん方が心配するような認識は持っていないはずです。最近、反動的な言説を声高語る人が目につくようになり、そのことには憂慮していますが、大多数の教員が、そういった言説に惑わされているわけではありません。この点は、よく理解していただきたいと思います。
(全体の論旨からやや外れますが、コラムとして読んでください)
中国のみなさんに、ひとつ、ぜひ理解してもらいたいことがあります。
私は、反動的な視点で歴史をねじ曲げて書かれている教科書の記述内容を批判します。しかし、私が批判することと、そういう記述が教科書として出ることを否定するかどうかということとは別次元だということを理解してほしいのです。
いろいろな執筆者が、そして教科書発行会社が、どのような歴史認識で記述した教科書をつくるのかということは、これも「言論・表現の自由」あるいは「教育の自由」であり、国家による介入をできるだけ少なくするべきものだと思っています。本来ならば、国家による検定という許可制度そのものにも賛成しないのですが、現に今はありますので、内容チェックをできるだけ少なくしていく声をあげたいと思います。
ということは、ある執筆者や発行会社は、過去の戦争を美化する内容の教科書をつくるかもしれません。かりにそうであったとしても、自由に教科書を執筆する権利を、国家として否定してはならないという考え方を、ぜひ理解してほしいのです。これが民主主義の要でもあるということもわかってほしいと思います。言論表現の自由とは、自分たちにとって都合が悪い内容のものでも、他者が、それを表に出す権利を認めきっていくこと。ある意味ではこれがエッセンスでもあるわけです。
手元に「長谷川ひでのり」さんという方(都政を革新する会)が発行したチラシがあります。このなかに次の文章がありました。関係する部分を引用してみます。
全般的にはなかなかまともなことが書かれていると思うのですが、1点だけ、大きな誤りがあると思っています。そしてこの誤りは、過去に自分たちの国がやった侵略の誤りをしっかりと見据えていこうという、まさに「良心」から発した考え方であるがゆえに、自己の誤りを発見し自分で批判できる発想が生まれにくいというところにあります。また、「良心」ある他者も、『内容はいいことを言っている』ということで、長谷川さんを批判することは難しいものです。ここが「侵略戦争に反対するという良心から出た考え方の陥穽」でもあると思います。人間がはまりやすい陥穽であるかのかもしれません。長谷川さんのビラを検討してみましょう。
中国各地で激しい抗日デモが拡大しています。中国民衆の怒りをかきたてているのは誰でしょうか。日本政府です。・・・・(途中略)・・・・戦犯をまつる靖国に首相が参拝を繰り返す、侵略を正当化し新たな戦争をせん動する教科書を検定合格にする、日米安保を対中国へシフトする、領土を奪い取ろうとする−−これらは中国民衆にとって日本帝国主義による「第2の15年侵略戦争」の「宣戦布告」にも等しいものです。抗日デモは、再び開始された日本帝国主義の侵略に対する正当な抵抗です (この部分はチラシからの引用です)
「侵略を正当化し新たな戦争をせん動する教科書を検定合格にする」と書かれていて、そういった教科書を検定合格にしたことを非難している部分です。もし、こういった教科書を不合格にすべきだったというのであれば、国家権力が、教科書の内容をチェックし合否を決めるということを自ら容認したことになるわけで、国家が教科書の内容をチェックしない、少なくとも、できるかぎりゆるやかな方向にもっていく重要な視点に水を差すことになってしまいます。
つくる会の歴史教科書に対して検定不合格とした場合には、文科省はよくやった、あるいは、当然のことをしたと評価することになるのでしょうか。私たちからみればトンデモナイ歴史教科書ですが、つくる会の執筆者にとっては、正しい教科書、いい教科書をつくったと真剣に思っているのだと思います。そういう人の考え方や表現の自由を奪う「検定不合格」をよしとすることが、はたして私たちが望む社会の方向性なのでしょうか。そうではありますまい。国家権力が、この教科書はOK、こちらは不合格などと、教育内容を決めていくことに「ゾッとする」というような感覚を持つべきではないのかと思うのです。この感覚の点が、残念ながら、長谷川さんにはやや欠けているのではないかとおもったのです。
ではどうすればいいのか。私たちにとって納得できないケシカラン教科書であっても、それをつくり発行する自由はあくまでも保障しきる感覚を持ち、しかし、その教科書はちっとも採用されず売れない状態をつくりだすことではないでしようか。トンデモナイ教科書を発行しても全く赤字になり採算が合わず、結局は、国民からソッポを向かれる教科書をつくる人や会社がなくなっていく、つまり「言論表現分野での自由競争」で、私たちの側が勝っていくことにあるのではないでしょうか。
一方、今、侵略を正当化しようとする教科書が生まれて、中国の民衆が怒っているのであるから、そこをしっかりと見据えることが現在の論点だという反論があるでしょう。一見、まっとうなことを述べているように見えますが、ここはある意味ではとても危険なとらえ方です。正しい道筋を見据えていれば、その道筋を進む手段がおかしくても批判しないということになりかねません。こうなれば、労働者階級の立場に立ち社会主義を守るためにという名目で多くの民衆を殺害したスターリン時代をどうして批判できましょうか。「しかたなかったではないか」と見逃すことになってしまいます。正しい道筋は正しい手段で行使されてこそ輝きがあるものであって、間違った手段を使う場合には、正しい道筋を進む資格を持ち得ないと、私は思います。
こう言うと、中国のみなさんは、感情的に「侵略を美化した教科書を認めるのか」と非難してくるかもしれませんが、もう少し深く考えてみてください。
生徒に何を教えるのかという「内容」を、国家があれこれとチェックすることの恐さに、もう少し思慮を深めてほしいと思うのです。何をどのように教えるのかは、市民と対話しながら教員が行う教育の自由であって、ここへの国家権力による介入をなくすことを目標に、できるかぎり最小限に抑えていかなければならない重要性を、ぜひみなさん方も考えてみて下さい。ヨーロッパ諸国では、教科書検定制度など存在しないところも多くあります。「国家が教科書をつくる」というあり方への否定は、21世紀の民主主義にとって極めて大切なことではないでしょうか。
そうなると、中国のみなさん方にとって「気に入らない」教科書が、日本で発行されることもあるでしょう。しかしそれは、言論表現の自由という大切な観点から、私たちが受け入れていかなければならないリスクだと思っています。
だからこそ、中国のみなさんと私たち日本の一般の市民や教員が相互理解と対話を深め、侵略戦争を美化するような教科書が自由に発行されたとしても、それが実際に採用されることがないように、教員自らがそのような教科書は「おかしいのだ」という目を育てていくようにしなければならないということです。私たちがそのような目を持つために、どうぞ、中国のみなさんのお気持ちをお聞かせいただき、同時に、この問題に潜む民主主義と言論表現の自由という「深い理解の視点」をお互いに育てていきたいと思います。
← シンセン市の入口の駅「羅湖駅」前にて撮影
私たち日本の側が心しなければならない態度があると同様に、中国のみなさん側にも考えてもらわなければならないことは多くあると思います。
反日デモのことを報道した日本のテレビで見たワンシーンです。デモ隊のメンバーで、「私たち(中国)は大きい.日本は吹けば飛ぶような小国だ(小日本というような蔑視表現)」みたいな発言をしている人がいました。このような人は一部なのでしょうが、経済力をつけてきた中国が、広大な国土と多くの人口を背景に、国民のなかには大国意識を持つようになってきてはいないかと危惧しています。
国民が大国意識を持てば、いずれはその国家は増長していき、いずれは衰退の憂き目をみると思います。小さくてもキラリと光る国、そういう国づくりこそが国際社会のなかで高い評価を受けるポジションを勝ちうるのではないでしょうか。人口も経済規模も日本の15分の1しかないスウェーデンなのですが、200年近く戦争をせず、女性の社会進出を高くする政策をすすめ、また、環境問題にも敏感な提言を行ったりするそのあり方は、国際社会のなかで大きな評価を受けているではないですか。「小さな国」スウェーデンは、アメリカとかわらないぐらいの影響力を国際社会のなかで持っているのではないでしょうか。大国意識は21世紀に通用するものではありません。
中国にある日系のお店が破壊されたというニュースも見ました。中国料理や文化が日本に入ってきて、私たちの生活の一部となり生活に彩りを添えてくれます。中国に進出した日系のお店も、一方で、中国の人たちの生活の利便に役立っているものと思います。現在の世界は、各国が相互依存を深めていて、そのことによって、お互いの国民の生活も豊かになっていくのではないでしょうか。私の周りにも、数多くの「MADE IN CHINA」があふれています。
日系のお店だからとか、日本人がそこにいるからという理由で、破壊行動が行われるとしたら、せっかく経済的な相互交流が高まっていることに水を差すようになりかねません。
外国を非難するのは、自国のナショナリズムを高揚させるのにはかなり有効です。今回の中国の「反日デモ」の様子を報道で見聞きして、中国はケシカラン、自分勝手だと、矛先を中国に向け、エスノセントリズム的に日本の国威を発揚させる動きが出てくるかもしれません。「日本政府の歴史認識は問題だけど、それにしてもの破壊行動はあまりにもひどい」という気持ちは、日本国民にも受け入れやすいですから(私も行き過ぎは大いにあると思っている)、せっかく複眼的な視点で見ていこうと考えている人たちですらも、国威発揚からの声に飲み込まれてしまうことを危惧します。日本の実際の教育現場での歴史認識と生徒への授業内容については、必ずしも、中国のみなさん方の心配するようにはなっていないのですから、みなさん方も、ぜひ、行動はには節度ある態度で臨んでいってほしいと切実に思っている日本の一国民です。
私も、中国の方の気持ちにリアルに触れたり、また、中国を訪れ、過去の戦争で日本がどういうことをやったのかの史跡を、今後、見ていきたいと思っています。
※私のこのエッセイをお読みいただき、私に送られてきたメールです。エッセイという形をとった私のメッセージが、歴史の歪曲や、自民族中心で隣国の人たちの気持ちをも顧みない政治家や学者の発言に、少しでも批判の声が広がることに貢献できれば幸いだと思います。
No86のエッセイを拝見してのことです。
昨今の、インターネットを中心としたナショナリズム的潮流に、わたし自身、言い知れない恐怖のようなものを感じておりました。故意に歪曲した歴史観を高らかに吹聴し、史学を学んだ人間からは信じられないような史料解釈、論理を展開し、相互理解を拒絶するかのような半島・大陸批判を繰り広げる人々。
わたしの身の回りでも、中途半端な知識、教養を身につけた人々が、そういった擬似的(史)科学に心酔したりしています。
それが先の大戦前後に生まれた、お年を召した方であればまだ良いのですが、実際は若者を中心としていることに、非常な憂いを覚えるのです。そんな中、果たして今の教育現場では(特に新しく日本・世界史の教員になった方々)どうなっているのか、という強い懸念がありました。
もしも中学、高校と、同じ轍を踏むような教育がなされているとしたら、それこそ本気で海外に逃げ出そうかと思っていたほどです。