No.84 女装家・三橋順子さんのコメントに反論

 このエッセイ(というか反論文)を書くかどうか、1年近くも迷ってしまいました。
 というのは、三橋順子さんが書かれたりご発言されたりする内容は、なかなか示唆に富んだことが多く、私も多くを学ばせられていることと、「性を変えて生きる」というあり方が、性同一性障害という病気の枠組みに押し込められる傾向に警鐘を発し、生き方あり方の問題としてのトランスジェンダリズムを提唱され、私も、そこで語られている具体的な内容には大いに賛成することが多かったからということにありました。
 具体的な方向性をどう考えるのかということに関しては、三橋さんなどが主張するトランスジェンダリズムの
内容を支持するがゆえに、その主たる提唱者の見解に反論を行うことは、内輪もめみたいに見られると困るかなという政治的な思惑もありました。
 ただ、今回、私が反論を加えたい三橋さんの意見部分が、『性という「饗宴」』(伏見憲明対談集、発行:ポット出版)の本となって出たこともあって、意見のちがいはちがいとして、はっきりと言っていくことこそが真摯な態度であろうと思うように至ったのです。三橋さんがなされていらっしゃる仕事・業績について、私は、たいへんに尊敬しています。彼女なくして、トランスジェンダーの社会史を体系だって世に指し示すことはできなかったと思っています。
三橋さんのご主張の大半については、もやもやと感じていたことを、明確に言語化して示してくださったものでした。私にとってかけがえのない道標を与えてくださった方でもあります。個人的な感情のことを言えば、感謝の気持ち以外には何もありません。
 感謝の気持ちは、彼女の言説のなかで、私が納得できない部分については、正々堂々と批判していくことこそが、彼女を尊敬するという態度であると同時に、感謝の気持ちを表す方法だとも思ったのです。納得できない点については、堂々と異論を言っていくことが、研究者の方への真摯な態度だと考えました。
 納得できないけれども、適当に聞き流しておく態度は、逆に「せせらわらう態度」ともなりかねないと思うに至り、ここに、反論文を掲載したいと思います。


 まず、私が反論したい三橋さんのご意見部分が掲載されている文章を掲載しておく。

伏見 医者の診断書があって、性同一性障害になるわけ?

三橋 厳密に言えば、性同一性障害は精神疾患の診断カテゴリーですから、診断できるのは精神科医だけです。自分が性別違和感をもっていることは自覚できても、それに「性同一性障害」と診断を下せるのは医者です。
 つまり、咳が出る、熱っぽい、自分で風邪をひいたかなかと認識はもてても、それがインフルエンザなのか、マイコプラズマ肺炎なのかの診断をつけるのは医者というのと同じです。宮崎留美子さんのように性同一性障害を自称できるという考えは私はとりません。

伏見 宮崎さんが以前、「自分が性同一性障害です、と名乗るとすごく反発を受けた」と言われてた。はたから見ると、診断書があってもなくても、それぐらい勝手に名乗ってもいいじゃないかと思う(笑)。それでだれかの腹が痛むのかしら?
 ぼくには性的属性の違いというよりは処方箋の違い、あるいは戦略の違いに見えますが。そもそも診断書を出している医者自体が怪しいでしょう(笑)。冗談ですが。

            『性という「饗宴」』(伏見憲明対談集、発行:ポット出版、2005年1月31日発行)
               三橋さんたちとの対談の初出は、オンラインマガジン Sexual sience 2004年3,4月号


 三橋さんの、このご意見について、2つの論点で反論を行いたい。

 1つめは、性同一性障害を診断できるのは医者だけだとして、それを立証する例えで「インフルエンザなのか、マイコプラズマ肺炎なのかの診断をつけるのは医者というのと同じ」という論理を展開されていらっしゃることについてだ。
 日頃、精緻な論理を展開されていらっしゃる三橋さんとしては、なんとも粗雑で乱暴な論理なのだろうと、まずは不思議に思った。それは、精神疾患とされる「性同一性障害」と「インフルエンザ」や「マイコプラズマ肺炎」とを同列に並べて論じる粗雑さにある。
 「インフルエンザ」「マイコプラズマ肺炎」などは、ウィルスという物質的な原因物の存在が確定され、それで病気を特定する、いわば自然科学に属するカテゴリーだ。自然科学は、社会の価値観や人間の思想とは関係なく、ある物質や反応は、ある結果をもたらすという点にある。この点は、科学に属するとはいえ、経済学や政治学とは大きく異なる点ともなっている。後者は、社会の価値観や人間の思想と深く関わりながらある結果がもたらされる。人間と無関係に動き反応する科学分野ではない。だから、人間の行動や考え方も研究の対象となっているわけなのだ。
 ところで、精神疾患なるものは、現時点での科学では、物質的な原因物との関係で病気が特定される段階にはなっていない。いろいろと説はあるものの、性同一性障害が分子レベルで解明されているわけではない。性同一性障害を疾患だと規定すること自体が、現時点での人間の思想を反映したものであって、これが「病気でなければならない」科学的な根拠は希薄である。
 かつて、同性愛は病気だとされていた。しかし、当事者の根強い運動もあって、現在では精神疾患から外されるようになっている。同性愛を病気だとしていたのは、その時代の人間社会の思想を反映した結果にすぎなかったということは、現時点では、一切の疾患ではないとされていることからも容易にわかる。性同一性障害の場合には、人によっては、性別適合手術(性転換手術)といった医療行為が必要になるため、未だ、病気とされる段階にある。しかし、医療行為が必要なことが、即、病気を意味しているわけではないということは、美容整形のことを考えればわかる。今後、性同一性障害が病気概念から外される時代(※)がくることは十分に想定できる。
 ちなみに、ハーブ・カチンス(米)は、彼の著書『精神疾患はつくられる〜DSM診断の罠』(日本評論社)で、精神医学のうさんくささをこれでもかというぐらいに例証している。
 周りが、社会が、ある人のありようを「そういう個性もあるさ」を受け入れれば、精神疾患とされているあるありようは病気ではなく個性としてみることもできるはずだ。しかし、社会の許容性が少なくなってきて異端を許さない状況が強まるにつれて、精神疾患という名の「異常者」を生み出していくということが起きているとも考えられる。
 このように、多分にうさんくささを持ち、社会の価値観や人間の思想が色濃く反映される精神疾患の分野である性同一性障害を、いとも簡単に、「インフルエンザ」「マイコプラズマ肺炎」という自然科学分野の病気の診断を例えにとって、性同一性障害を診断することも「同じです」と結論づけるとは、なんとも粗雑な論理だと、私は思ったのだ。
※現時点でも、例えば、タイでは、日本の何十倍の数の性転換手術が行われているが、当事者は「性同一性障害を病気だと言うのは欧米の誤った考え方」だと思っているようだし、タイの精神科医は「性同一性障害を病気だと考えないのは世界の趨勢」だと言い切っているぐらいである


 2つめは、「性同一性障害は精神疾患の診断カテゴリーですから、診断できるのは精神科医だけです」という部分。
 「性同一性障害は精神疾患の診断カテゴリー」だというのは、これは、この文字列だけの判断であれば間違ってはいない。確かに、ICD−10やDSM−Wという疾病分類で規定されている。ちなみに、ICD−10であれば、F64という分類記号が性同一性障害に割り当てられている。
 ただ、私であれば、つぎのように述べるだろう。
「性同一性障害は精神疾患の診断カテゴリーに起源をもつ言葉」だと。今や、性同一性障害の言葉が幅広く使われ出したために、医学分野だけで使用される言葉ではなくなっている。起源が診断カテゴリーにあったとしても、その用語が他の分野で幅広く使われだすことはありえてもいい。
 たとえば、東京都の人権を定めたヒューマンウェーブ21では、性同一性障害に人に関わる人権が記されているのだが、三橋さんは、ここで記載されている性同一性障害という言葉がもつ守備範囲を、精神科医により性同一性障害の診断書を受けた者の人権だけだと限定的に解釈するのだろうか。
 自治体の一部では、性同一性障害の人に配慮した施策として、選挙ハガキの性別欄をなくす取り組みがなされている。こういった場面で書かれている「性同一性障害」の語は、診断書をもらった人を指すためだけに使われているとでも言うのだろうか。
 それに、「宮崎留美子さんのように性同一性障害を自称できるという考えは私はとりません」と言っているが、性同一性障害だと言うためには、1人の精神科医の診断でいいのか、それともセカンドオピニオンまで必要になるのかどうか。また、口頭診断でもいいのか、診断書なる、この言葉を言うための「免許証」がないと言えないのか。さらには、国外の精神科医の診断ではだめで日本国内の精神科医の診断でないといけないのかどうか。「私はとりません」という以上、どこまでは自称とはいえず、どこからは自称となるのか、このあたりのことを論理的に明確に語ることが、いやしくも、研究者ならではの努めだと、私は思う。
 というのは、現に、私の場合、タイの精神科医(医学博士)から「あなたは性同一性障害です」と言われているのだが(この部分は、スーパーテレビ情報最前線「男ときどき女」のなかで放映されたシーン)(※)、これは国外の精神科医であるため、また、診断書というペーパーがないため、この程度では、言うための「免許」にはならないと考えるのかどうかなど、明確に解明しなければならない点が多すぎる。こういったことをあやふやにしておいて、「性同一性障害を自称できるという考えは私はとりません」というのは、あまりにも乱暴な論理だとしかいいようがない。
※誤解されないように書いておく。私は、性同一性障害の語を自称するべきだという主旨で言っているのではない。私の著書のタイトルにもあるように、自分では『私はトランスジェンダー』(私の著書のタイトル名)だと言っている。しかし、性同一性障害の語を、医者の診断があることが前提で言えるというような、医者に「自分が何であるかを言うための権限」を与える論理には与するわけにはいかないということを主張したいということ。

 三橋さんは、性同一性障害のみならず「インフルエンザなのかマイコプラズマ肺炎なのかの診断をつけるのは医者」だとも述べているため、ここでは、自然科学分野に属する疾患の診断が、現実に、本当に医者だけになっているのかどうかをみてみよう。
 三橋さんは、小・中・高などいわゆる「学校」にお勤めではないこともあってご存じないのかもしれないが、診断は、医者ではない者からもよくなされているのが現実だ。
 体育祭などのとき、気分が悪くなったといって救護テントにくる生徒がいる。私などは、どういう原因なのかわからずオロオロするだけだが、体育の教員は実にテキパキと「過呼吸だ」と、まさに「診断」し、袋を使うなど、酸素量を減らす呼吸をするよう工夫した処置を行っている。このように、診断は、別に、医者でなくてもよくやっていることなのだ。
 三橋さんは混同してしまっている。
 医者でなければできないことは、そして、医者以外がやってはいけないことは「お金をもらい生業として診断する行為」であることなのだ(※)。ここをまちがってはならない。三橋さんは、具合が悪くなったという生徒に対して、過呼吸という診断もしてはならず、救急車を呼んで、すべて医師のところへ向かわせよとでもいうのだろうか。現実に行われていることとはかけ離れたことを述べているとしか言いようがない。
※メスを入れるなど人に傷をつける行為は、医者以外がやると、生業ではなくても傷害罪になるというふうに、刑法にかかわることは生業でなくてもできないということを、一応補足しておく

← 飛騨高山の駅前で、三橋さんとツーショット.三橋さんはいつもすてきな着物を着ていらっしゃいます
 このように、自然科学分野の疾患であっても、診断が医者だけだとはいえないのに、まして、うさんくささもある精神疾患の診断を「医者だけ」だと断定するのは、これは、理路整然と語ることを旨とする三橋さんらしくない。いったい、性同一性障害かどうかの診断について、本当に、精神科医はわかっているのかどうか。例えば、三橋さんと精神科医と、どちらがより正確な診断が下せるのか、これは、一概に精神科医の方だとはいえないのではないかと思うのだ。精神疾患は純然たる自然科学ではないこともあって、同性愛が病気だと診断されたり、病気ではなくなったりするなどのように、診断は、その時代の価値観にも大いに左右される。なのに、医者に判断を委ねてしまうという態度は、三橋さんの他の言説でうけたイメージとの乖離が大きく、とても違和感を感じてしまう。
 現時点では、精神疾患とされている分野であるからこそ、私は、「診断は医者がやること」というふうに、安易に医者に委ねてしまうことをやってはならないと、私は思っている。
※対談のなかで、伏見さんは、冗談だと断りながらも「そもそも診断書を出している医者自体が怪しいでしょう」と語っている。ここには、いくばくかの本心も含まれていると私は思うのだが、医者に対して、これぐらいの距離を持つ発言をしてほしいと思う。

 私は、この問題については、次のように考える。
 自分が「なんであるか」の呼称を、誰がなにを言おうと、それは全くの自由の分野であること。医者から診断されてもいないのに「医者から診断書をもらった」と言った場合には、これはウソでありダメなことだが、自分をどう診断して、自分をどう名乗るかは、その人の考え方と自由の分野である。病名を名乗ることまでも、他者からの「免許」を必要とするなどは、日頃の三橋さんの言動から考えて、なんとも不思議な論理であるといわざるを得ない。さらには、自分で自分を診断することもできないような言い方を(「診断できるのは精神科医だけです」というような語り)、三橋さんともあろう方がなぜおっしゃられるのか、私は理解に苦しんでいる。まさか、医療分野を聖域化しているわけではないだろうのに。
 5年ほど前、女装するのに免許がいるとかどうとか。そして、その免許を与えるのが「トランス公安委員会」だとかの、全く馬鹿げた主張を行った者がいた(※)。三橋さんは、このトランス公安委員会のことについてしっかりした批判を行っていた。私は、その批判には全面的に賛成であった。しかし、対談で、「性同一性障害を自称できるという考えは私はとりません」と断定し、性同一性障害を言うには、医師の診断(診断書も必要なのか?)を要するという主張は、形を変えたトランス公安委員会ではないのかと思ってしまうのは勘ぐりか。
※この方は、今では、この主張については反省しているようで、トランスジェンダー全般の問題についても、当時と意見が変わってきている。人には考え違いはありえることなので、過去の誤りを、今の時点で追及するつもりは全くない。

 なにをどう名乗るかは、私たちの社会では、各人の自由の範疇だが、とくに、役職名や資格などでウソを言って、金銭的に他人に損害を与えたとなれば、その時点で詐欺罪が成立するということにはなるだろう。しかし、そういうケースではないことは世の中にはたくさんある。
 「博士」号は、博士課程にすすむなどして論文を提出して認められる必要がある。ところが、世の中には、博士を名乗ることはよくある。家庭教師の「ふくろう博士」はどうだろうか。はたまた、「まちの電気のお医者さん」というネーミングもみかける。もともとは資格名に起源があるとはいえ、かなり一般化されて使われていることは、世の中には多々あるはずだ。
 ふくろう博士や、まちの電気のお医者さんで、他人を騙し金銭的損害を与えるのでなければ、別に自称することじたいは一向にかまわないはずだ。私たちの社会は、言葉の使い方にあれやこれやと制限をつけ言葉狩りをしてはいけないし、個人が語る言葉の使用について、第3者の許可がいるような言説は危険ですらある。
 ところで、精神科医ではなく、本人の自称による場合、他人が、その人の自称をどの程度信憑性をもってみるかは、これもまた、見る人・受けとめる人の自由であるだろう。医師の診断を受けていなくて自称していたとした場合、仮に、受けとめる側がうさんくさく思ったとした場合、これもまたいたしかたないことである。
 要は、語るのに第3者の許可みたいなことがあってはならないと同時に、自称をどう考えるのかも、聞き手の側の判断によるということだ。

 三橋さんは、言う論点をまちがっていたと、私は思う。
 性同一性障害は医師だけが診断できるといういい方は、性同一性障害の人の一部に蔓延している言い方だ。自分で自分の生き方を考えていくのではなく、医療機関の判断に依存して生きていくという、自立性のない人たちの主張と同じことを言い、この意味で、三橋さんが批判したかった人たちの土俵に、自分も乗ってしまっていると言わざるをえない。
 もし私を批判するのであれば、ここは、つぎのように言うべきではなかったか。
「性を変えて生きていこうという人が医療に囲われてしまう現在の傾向は問題だ。このようなとき、宮崎留美子は、安易に性同一性障害などという言葉を使うべきではない.トランスジェンダーという当事者が生み出した言葉を使うべきだ」と。
 これならば、理屈としてはわかる。
 あとは、三橋さんの言うように、トランスジェンダーと性同一性障害を「分けて」考えることが、戦略として望ましいか否かの議論になっていく。
 私は、トランスジェンダリズムなどという大げさに「イズム」と名づけるほどのものではないと思っている(主張している具体的なことがらには大賛成、ただしイズムというほどのことだとは思わないということ)。性同一性障害とトランスジェンダーとを対比させて区別していくことは、私は、日本では意味がないと思っている立場だ。ただ、これについては、別の議論であり今回の反論文のテーマとはちがうため、これ以上の言及はしない。(※)
※性を変えて生きていく人たちがゆるやかに受け入れられているタイでは、トランスジェンダリズムという運動形態はないし、性同一性障害とトランスジェンダーを区別する雰囲気もない