No.82 カルーセル麻紀さんの戸籍の性別変更を喜ぶ
芸能界、テレビでもお馴染み、ニューハーフのタレント「カルーセル麻紀」さんが、晴れて、戸籍上も女性になったという報道があった。各新聞でニュースになっているが、ここでは、比較的詳しく書かれていた日刊スポーツの記事を引用しておく。
●カルーセル麻紀、戸籍変更認められ女に!
タレントのカルーセル麻紀(61)が晴れて「女」になったことが3日、分かった。カルーセルは性同一性障害者の戸籍の性別変更を認める法律が施行された7月16日に、家庭裁判所へ戸籍の変更を申し立てていた。家事審判を経て、このほど、変更が認められた。本名の「平原徹男」から改名する「平原麻紀」としての新戸籍が出来次第、会見を行う。
待ちに待った「男」から「女」への性別変更の許可だった。7月16日に性同一性障害者の戸籍の性別変更を認める法律が施行され、カルーセルをはじめ、女から男への変更を求めた作家の虎井まさ衛さん(40)ら7人が施行日に家庭裁判所に申し立てた。虎井さんは9月10日に変更が認められたが、カルーセルには2週間以上遅れて9月末に許可の朗報が届いた。関係者によると、カルーセルも「これで女として生きていける」と大喜びで、現在、書き換え中の戸籍や健康保険証、パスポートが出来上がるのを心待ちにしている。
カルーセルは、30歳で性転換手術をして以来、体も心も「女」だが、戸籍上は「男」のギャップに悩んできた。パスポートも健康保険証も「男」のため、海外の入国審査でのトラブルも多く、別室に呼ばれて事情を聴かれたこともあった。
そんなカルーセルに「女」になるチャンスが訪れた。自分が属すると考える性別と体が一致しない性同一性障害について、日本でも98年に性別適合手術による治療が始まったが、戸籍がそのままでは結婚できず、就職も難しい。このため昨年7月に
<1>2人以上の医師が性同一性障害と診断
<2>20歳以上
<3>結婚していない
<4>子供がいない
<5>性別適合手術を受けた
を条件に、戸籍の性別変更を認める特例法が成立した。
申し立て後、9月に家庭裁判所で裁判官による約1時間の面談を受けた。申立書をもとに質問を受け、カルーセルも戸籍変更を強く訴えた。そのかいあって、晴れて「女」となり、今後は男性との結婚も可能になる。新しい戸籍が出来次第、「平原麻紀」として会見する予定だ。(日刊スポーツ)10月4日
← 現在の私、鎌倉・鶴岡八幡宮にて
このニュースを聞いて、本当にうれしかった。性転換手術(性別適合手術)を行っていて、かつ、上記の条件を満たした場合に、戸籍の性別を変更できるという法律「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下、特例法と記す)が、2003年7月に成立し、1年後の2004年7月に施行となった。しかし私は、ニューハーフを職業としている場合、この戸籍の性別変更が認められることになりうるのかどうか危惧をもっていた。
ニューハーフを職業としている人が性転換手術を希望した場合、それを認めないということはないのだが、ニューハーフの職業を継続していく上で性転換は利益があるからとみなされた場合、経済的理由にもとづく手術は困難であるという状況があった。ただ、カルーセル麻紀さんは、すでに、1973年にモロッコで性転換手術を終えているため、ニューハーフの人が現時点において手術を行いうるかどうかということとは条件がちがうという思いも、一方ではあった。
性を変えて生きていくという人たちが、昔ほどには奇異の目で見られなくなったというきっかけは、1998年の埼玉医大で公式に性転換手術を行ってからのことであると考えている人がいるが、これは少しちがっていると私は思っている。
ホームページサイトで、つぎの記事を見つけたが、私もこの通りだと感じているひとりである。1998年の手術開始は大きく話題にはなったが、それ以前に、ニューハーフの人たちが、奇異の眼で見る世間の風潮を変えていき、「彼らに対する世間の偏見がかなり軽減された」という現実を見落としてはいけないだろう。さらに付け加えるとすれば、1981年に彗星のごとく登場した「松原留美子」というニューハーフも、偏見の軽減大きくに貢献したと考えている(ちなみに、ニューハーフの言葉は、この人の出現で広がっていった)。
近年はいわゆる「オカマ」、生まれは男性だが女性として生活している人、のテレビでの露出度が以前にくらべ高くなっています。しかも「際物」扱いではなく「普通の芸能人」とて自然に出演しているのです。
以前はそうではありませんでした。出演頻度も低く、出ても際物としてでした。コメンテーターのような立派な役分は夢のまた夢だったでしょう。
この風潮を大きく変えたのは、あるバラエティー番組の1コーナーでした。「笑っていいとも」の1988年に始まった「ミスター・レディー」というコーナーです。バブル末期にあたります。この時期には、長い好景気のためか「はじけた」番組が多かったように思います。しかし、このコーナーを通して多くの性転換者や女装愛好家が紹介された結果、彼らに対する世間の偏見がかなり軽減されたのです。
※「http://homepage2.nifty.com/bet-aramaye/misc/maki.html」からの引用← 20歳ごろの私、大学時代、札幌の自室にて撮影
1998年ごろからの「性を変えて生きていきたい」という人たちの運動は、それまでのニューハーフ世界とはちがった人たちによって担われてきた。接客業やショーダンサーを生業とせず、いわゆる「普通の仕事」をしている人たちのムーブメントが主役になってきた。今のように、戸籍の性別が変更できるという法律が制定されたのは、こういった人たちによる努力が大きい。しかし、そういった状況をつくった「前史」を、ゆめゆめ見落としてはなるまい。
1998年からの5,6年で、ここまでの変化が生じたのは、それまでの性を変えて生きていく人たちの存在が、社会の認識として、ある程度は認知されていたことがあったからだと思うのだ。仮に、それが、ニューハーフと言われている人たちに限られていたとしても、「世間の偏見がかなり軽減された」状況の変化があったからだと、私は受けとめている。
そして、「ミスター・レディー」のコーナーや「松原留美子」のさらに前段階として、カルーセル麻紀が存在したことを忘れてはならないと思う。今では、性同一性障害とかトランスジェンダーなどの、やや〈しかめっ面しい〉単語で語られているが、そういう単語すら存在せず、ゲイボーイと呼んでいた時代に、すでに性転換手術を行い女性の姿をして芸能活動を行っていた事実は、やはり驚愕に値する。現在、活動している性同一性障害の人/トランスジェンダーの大先輩にあたる方であるわけだ。
このような大先輩のカルーセル麻紀が、戸籍の性別変更を実現できなかったとしたら、いったい何のために誰のために特例法がつくられたのかわからなくなる。このように思っていた。
心配していたところ、変更が認められたという記事を読み、本当にうれしかった。
もっとも、うれしかったことの背景には、私とカルーセル麻紀さんとのちょっとした出会いがあり身近に感じていたということもあった(もっとも、カルーセル麻紀さんは全く覚えていないと思われるが)。
ときは、1970年代後半。ということは、カルーセル麻紀さんが性転換手術を行ってから数年たったときということになる。場所は、札幌の「ゴールデンK」という、当時の呼称でいうゲイバー。今の名称でいえばニューハーフバーだろうか。
← (写真左)20歳ごろの私、アルバイトしていた札幌の「ゴールデンK」の店内にて撮影
← (写真右)大学を卒業し札幌を離れて以来はじめて、数年前、現在、文中に出てくる圭子ママが経営している「シーラカンス」というお店を訪れたときに、ママとツーショットしたときの写真.当時、こうやって再会できるとは思ってもいなかった.
70年代後半は、私の大学生時代であった。生まれは九州なのだが、何の因果か(もちろんいろいろと考えてからのことではあるが)北海道大学に進学した。北大は札幌市にある。地方都市とはいえ、札幌は地下鉄も通っている大都会。盛り場のすすきのは、東京の新宿以北では最大の歓楽街だという。ゴールデンKはここにあった。
当時、女性の姿で街を歩いていた私ではあったが、誰も同じ性的なありようの知りあいがいなくて、ひとりで歩いてまわるだけでは寂しいしつまらない。そこで、勇気をもって、ゴールデンKの扉をたたき、ママに、「私をアルバイトさせてください」と頼み込んだのだった。このママというのが、現在はまだかくしゃくとしていて、元気で、岐阜・柳ヶ瀬の「シーラカンス」というお店を経営しておられる方である。当時は、圭子さんといわれていた。ゴールデンKの「K」は、たぶんここからとったのだろうと思う。そして、この圭子ママが、カルーセル麻紀さんと一緒に、今でいうニューハーフのショーのために全国を行脚していたことがあったという。カルーセル麻紀さんと圭子ママは親しい同僚であったわけだ。
カルーセル麻紀さんが札幌を訪れたときには、圭子ママに会うためにもゴールデンKにやってくることになる。たまたま、私がお店に出ていた日、カルーセル麻紀さんがやってきたというわけだ。それはもう感動した。私が高校生のころ、両親に気づかれぬように、ひっそりと、しかし食い入るように、ブラウン管に映ったカルーセル麻紀さんを見て、
「この人のようになりたい!!」
何度、思ったことだろう。その当人が、私の前にいるではないか。私としては、たまらない感動であったことを今でも思い出す。もっとも、カルーセル麻紀さんにとっては、とるにたらない、学生のアルバイト女装者だったのかもしれない。もちろん、サインをおねだりして書いてもらった。
さて、今では、私も、このようにホームページを開き、100万を超すアクセス数になり(2004年10月現在)、『私はトランスジェンダー』という本を出したり、『スーパーテレビ情報最前線−男ときどき女−』というテレビに出たり、はたまた、講演のお呼びがかかったりと、少しばかりは名前が知られるようになった。でも、今の私の原点は、やはり、カルーセル麻紀さんを知ったことにあると思っている。私にとっては、生涯、忘れることのできない大先輩ということになるだろうし、高校生時代に、(ブラウン管の向こう側とはいえ)彼女を知ったことで、どれだけ私の心が救われたことか。
カルーセル麻紀さんは、かように、私の生涯に大きく影響してきた人だったのだ。その彼女が、名実ともに、女性の戸籍を獲得できたことを、本当に喜びたい。