No.81 戸籍の性別変更、それが第一義でいいのか?
写真は、岐阜・柳ケ瀬にある「シーラカンス」というニューハーフのバーで撮影したもの。
私と一緒に写っているのがママさん。私が、大学時代、札幌にいたときに、アルバイトをしていた「ゴールデンK」というニューハーフバーを経営しておられた方だ。
このように、日本では、ずっと前から、ニューハーフ人たちが「性を変えて生きていく」というシーンの主人公を担ってきていた。こういった先人の活動があったがゆえの〈今〉であることを見落としてはならない。そして日本には、ヨーロッパなどとちがって、こういったニューハーフの文化が、けっこう厚く存在しているという希少な社会なのだということ。
(2004.9.10追加記入)フランスの大学に留学されておられるある方から、つぎのような情報が届きました。日本との差異を感じてしまいます。18世紀に、啓蒙思想家ルソーを生み、フランス革命、フランス人権宣言を出した社会の底力を感じます。これで、私が知るかぎりでは、自らがゲイであることを表明された大都市部の首長は、ベルリン市とパリ市ということになります。両者とも首都の首長。人権を大切にする社会であるヨーロッパらしいありようだと思います。しかしその一方で、「一昨年、ゲイ嫌いの男に刺され、重傷を負いました」ということですから、社会全体としての許容度がどのようになっているかということも、同時に考えていかなければならないことなのだと思いました。
一方、同性愛の人も、さほど偏見を持たれず普通に受け入れられているタイは、人権とかゲイパレードなどの「はっきりした主張」を行う光景は、あまり聞きません。でも、おおらかに受け入れられている。まさに西洋と東洋との文化に違いなんでしょうね。どちらのあり方の方が優れているなどの比較をする事自体がナンセンスなのかもしれません。確かに、パリの状況はすばらしいと思います。しかし、アジアの「感性」も捨てたものじゃないという見方。これが、エスノセントリズム(自民族中心主義)に陥らない観点なのだと私は思います。
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現在のパリ市長は国会議員だった98年に、フランスで初めてゲイだとカミングアウトした政治家です。一昨年、ゲイ嫌いの男に刺され、重傷を負いました。
フランスでは、ゲイパレードに毎年60万人が参加。革命記念日に次ぐ観光イベントにすらなっており、パリ市が共催しています。
市長はパレードの先頭をいつも歩いています。
2004年の夏、オランダ、ドイツ、ポーランド、チェコ、オーストリアを旅してきた。アウシュビッツを見たいとか、ベルリンの壁のその後を知りたいだとかの目的が主だったが、同時に、ヨーロッパのトランスジェンダーの状況を知ることも、私の旅の目的のひとつだった。長期にわたって滞在するわけではなく通り過ぎる「旅人」の私が、どこまで正しく知りえたかはわからない。しかし、大枠としての把握はできたのではないかと思っている。
トランスジェンダーの状況として各国を見た場合、そのあり方に、根っこのところでちがいがあるのではないか、そう思うようになった。
ヨーロッパは、マイノリティとの共生をすすめていくという「成熟した先進国」であり、環境や女性、少数者を大切に考えていこうとする社会民主主義的思考が強い地域である。トランスジェンダーをあからさまに差別したり蔑視したりする状況は少ないと思われる(タテマエであったにせよ)。
一方、トランスジェンダーが生き生きと普通に生活しているタイは、ようやく発展途上国を脱しつつあるところだし、環境、女性、少数者の人権が大きな声で語られているところではない。どちらも、受け入れていくということでは同じではあるが、ヨーロッパとタイとでは、トランスジェンダーをめぐる状況で大きなちがいがあるのではないか。それが私の問題意識として芽生えてきた。
ヨーロッパには、トランスジェンダーを受け入れるという「人権としての思考法」はあるのだが、トランスジェンダーの文化を見いだすことはできなかった。だが、ゲイ文化はある。オランダでもドイツでも、ゲイの人たちが集まり語りあう場所(バーなど)はある。そして、ベルリンではびっくりしたことがあった。
観光案内所に、各国語のベルリン市の地図が売ってある。1ユーロだ。日本語版もあったのでそれを購入した。なにげなく地図を見た。ベルリン市の全体図の裏面には、公的な施設や重要な施設の案内が記されているのだが、そのなかに、ゲイとレズビアン、それぞれの相談窓口の案内が書かれていて電話番号も記されていた。私たちの日本を考えたとき、東京の地図にゲイやレズビアンに関わる施設の案内が掲載されるだろうか。ベルリンでは、そういった場所が公的な観光地図に明記されているのだ。性的少数者の課題を大事な問題として扱っていこうという姿勢を読みとることができる。そういえば、ベルリン市長は、ドイツ社会民主党の支持を受けた方らしいが、自らがゲイであることを公言した政治家であるという。
ゲイの人たちが集まるバーなどがあるとある駅で、男性どうしのカップルが頬を寄せあっている光景も目にした。ゲイであることを堂々と表明できる、そういう都市になりつつあるのかもしれない。オランダも実に寛容だ。もともと、オランダは、他者に迷惑をかけなければ何事も自由といった「自由と寛容社会」が伝統としてある。売買春は合法化されており、マリファナですら少量であれば購入し服用しても犯罪にはならない。アムステルダム中央駅のすぐ近くに、ゲイが集う店が堂々と居を構えている。
ゲイやレズビアンが、人権の理解のなかでしっかりと位置づけられていることはわかった。では、トランスジェンダーは?となると、この人たちが日常的に集まりコミュニケーションするようなバーはないのだ。私は、インターネットでの検索も利用しあちらこちらと回った。ゲイのお店はすぐに見つかるので、そこに行って、トランスジェンダーの人たちがいる場所を聞いたりした。そういった人たちは「いることはいる」のだが、お店に集うのは、なんらかのイベントのときであって、日常的に集うところはないという。たまたま、アムステルダムの金曜の夜、歓楽街に舞台がしつらえてあって、なにかイベントらしきことをやっている。大勢の人がいたのだが、そのなかに、ドラァグクイーン風の人を何人か見かけることはあった。ドラァグクイーンを写真に撮る人たちもいた。このように、イベントのときには、女装ということはありえる。しかし、日常的なコミュニティの存在は見いだすことができなかった。
1軒だけ、アムステルダムに、お店のスタッフが女装しているバーがあった。そこに行ってみた。しかし、店内にいるのは、ゲイの人たちばかりであって、いわゆるトランスの人はひとりもいない。また、ベルリンでもアムステルダムでも、ニューハーフのお店というのはなかったし、ニューハーフショーというのもない。
タイは、この点、全然ちがう。街中でも、トランスジェンダーらしき人を見かけることもあるし、チュラロンコン大学の文学部には、そういった人たちがけっこうえいるという。現に、行き当たりばったりで文学部の食堂に行ったとき、トランスジェンダーがいて話しかけたこともあった。
ニューハーフのショーをやる場所は、バンコク市内に、何百人も入る劇場を持ちストーリー性があって客を飽きさせないショーをやるところだけでも4店がある。パッポン通りという歓楽街の場末のショーを含めると、かなりの数にのぼるのではないだろうか。
トランスジェンダーが、ニューハーフといった職業を通じて、その文化がタイ社会に根づいている。こういったトランスジェンダーの文化は、タイにはあってもヨーロッパでは見かけない。
ひるがえって、日本はどうだろう。タイほどではないにしても、ニューハーフの文化はしっかりとある。タイのように大がかりではないが、ニューハーフのショーをやるところもあり、東京では、観光バスのコースのひとつにもなっている。さらに、ニューハーフのバーや、女装系のスナックなど、トランスの人たちが日常的に集える場所があり、また、文化もある。私がみるところ、日本は、ヨーロッパよりははるかにタイの方に近似する。
そこで、試論ではあるが、考察してみた。(a)ゲイ/レズビアンの文化、トランスジェンダーの文化の両方を持つ社会
(b)ゲイ/レズビアンの文化はあるが、トランスジェンダーの文化を持たない社会
(c)ゲイ/レズビアンの文化を持たないが、トランスジェンダーの文化を持つ社会
(d)ゲイ/レズビアンの文化もトランスジェンダーの文化も持たない社会
4つの組み合わせが考えられる。(a)は、その代表格はタイ。そして、日本もこれに含まれる。
(b)は、ヨーロッパ。アメリカもそうだろうか。
(c)は、今のところ、私には思いつかない。
(d)は、たぶん、イスラム圏が考えられる。
トランスジェンダーの文化を持つ
トランスジェンダーの文化を持たない
ゲイ/レズビアン文化を持つ
(a)タイ、日本
(b)ヨーロッパ、アメリカ?
ゲイ/レズビアン文化を持たない
(c)−−−−−−−
(d)イスラム圏?
ヨーロッパなどの(b)では、トランスジェンダーは存在するのだが、トランスジェンダーの文化やコミュニティが確立されておらず、所与の性とは逆の性に移行して、そして、逆の性で「普通に生活する」ことを目指すということになるだろうか。ここでは、フルタイムで別の性で生きていくというわけではない場合には、イベントなどのときに「女装する」というケースとなるのだろう。社会一般で、トランスの人たちが、広く受け入れられているという状況とはちがう。人権概念を援用し、性転換手術を行った場合には、登録の性(日本でいえば戸籍)を変更することで、所与の性から、登録の性を別の性に変え、別の性で一般の文化のなかで生きていく状況がつくられるのだろうと思われる。
タイのような(a)の場合、所与の性から、登録の性を別の性に変え、別の性で一般の文化のなかで生きていく人も存在するが、ニューハーフとして独自の文化をつくり生きていく人たちもかなりいることになる。こういった社会の場合には、登録の性を変更するというニーズもあるにせよ、主となる動きは、性を変えて生きていくトランスの人を、社会全体として普通に受け入れていくという「社会のあり方」が重要になってくるのではないだろうか。そこでは、登録の性がどうであるかは次善の問題であって、「現に存在するその人」が、一般の人と同様に普通に暮らしていけることが第一義となるものと思われる。
こういったところでは、トランスの人たちは、性転換し別の性に登録を変更し、一般の別の性のなかで暮らしていこうというニーズだけではない。ニューハーフの人たちのニーズもかなりの程度あるわけで、両者をともに満足させるあり方を模索することになる。
さて、日本はどうだろう。どういう方向を目指すべきだろうか。
前述の分類でいくと、日本は、タイに近似する(a)である。ニューハーフの文化を持つ社会であり、その意味では、世界の中でも、タイと並んで希有な社会ともいえる。
三橋順子氏(もと中央大講師)が説明していたところによると、キリスト教文化ではなく、儒教の影響も少ない仏教文化の国では、トランスジェンダーを受け入れる文化が育つという。別の学者で、タイは仏教文化である。キリスト教が入り込もうとしても入り込めなかった国だと話してくれた人もいた。
日本はどうかというと、キリスト教の影響はある程度はある。儒教の影響もなくはない。しかし、基本は仏教文化であって、その意味では、タイに似ている側面もあるということになる。ニューハーフというトランスジェンダーの文化を持つ希少な国。それが日本であるということ。これを見落としてはならない。
となると、トランスジェンダーの問題で、日本がすすむ方向性は、ヨーロッパのあり方よりか、むしろ、タイのあり方を参考にするべきということになるのではないか。今の段階では試論ではあるが、決して暴論であるとは思わない。
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地方都市でも最低でも1軒ぐらいはニューハーフのバーが存在し、大都市部になれば、女装者が集ってくる「女装系スナック」が、数軒ないしは10数軒が経営的にも成り立つ素地をもっている日本は、明らかにヨーロッパの状況とはちがう。なのに、ヨーロッパ諸国の制度に遅れをとっているということで、戸籍の性別を変える要件を緩和し欧米並にしていこうという運動が主流となりつつある「不思議さ」がある。
2004年9月6日号のAERAにはこうあった。
「先の参院選では投票所でびくびくした。投票入場券に記載された性別と外見がちがうために、本人かと疑われ、騒ぎになったケースが過去にあったからだ。保険証やパスポートの提示にも不安がつきまとう。病院にも行きにくい(「性同一性障害特例法の陰で」)。 社会生活でつきまとうさまざまな公的書類の性別が、外見や日常的に生活する性別と一致する性で記載されれば、それは望ましいことではある。しかしそのためには、条件をどんなに緩和したとしても、緩和されたらされたで、その地点での線引きは依然として残る。現行の特例法では、戸籍の性別変更は、子どもがいたら認められない。条件緩和を主張している大島教授(神戸学院大)であっても、「同性婚が容認されていない現状では、戸籍上の性別変更には一定の厳格さは必要(朝日新聞2004年9月2日)」と言う。そのうえで、「(戸籍とはちがう)保険証や住民票の性別変更は、より緩やかな手続きで認めてもよいのではないか」と主張されている。条件の緩和があったとしても、厳格な線引きをすることを否定しているわけではない。
同じ記事中にあった、塚田氏(埼玉社会保険病院精神神経科部長)は、かなり斬新な考え方を述べてはいる。性別適合手術までは望まない人の方が多いこともあることを背景に、手術するか否かは「病状の軽重ではなく、適用できる条件の違いだ」と言う・・・・これについては全くそのとおりだと思うし、私は、かねてからこの主張をしてきている・・・・
そのため、ホルモン療法などで生殖能力を失い、社会的に適合し他人に迷惑をかけない状況がある場合には、例えていうならば「ペニスのある女性」を、戸籍的にも女性の性別になるように変更を認めるべきだと言っているように読める。仲間内の議論であればともかく、公的な新聞で「権威ある」医師の言としては傾聴に値する発言だろう。このような方向性を展望するがゆえに、(戸籍を変更することを)悪用するおそれはないかとの質問に対して、塚田氏は、精神科医は信頼性のある診断書を出す倫理観がもとめられると答えている。「ペニスのある女性」を女性の戸籍の性別にしていこうという展望を持って発言するという前提で考えれば、論理としては整合性があるともいえるが、それでも、なおかつ大きな問題点は存在する。
性別適合手術を含めて、性を変える処置を行うとき、「経済上の理由」と思われたらなかなか処置ができないということがある。ニューハーフという職業や文化が根を張って存在している世界的にも希有な国で(タイなどもそうだが)、こういった人たちについて目配りができているだろうか。ニューハーフにとっては、自分の性別違和感と同時に、経済上のことが皆無とは言い難い面がある。
日本国内で手術を行う場合、もとには戻れない不可逆の処置であるため、慎重の上に慎重にということで、精神科医2人以上の診断があることが条件というのは、これは、医師側の治療責任をかぶる側の気持ちとしてはわかる。当たり前のプロセスともいえるかもしれない。しかし、当事者にとっては別だ。当事者は治療責任を被るわけではなく、まさに「自分の問題」であるため、自分で判断する自己責任が課せられる。その結果、日本国内ではなく、海外の病院で手術を行うというケースもかなり多い。費用も日本よりは格段に安く、しかも性器形成技術は世界のトップレベルということになれば、市場原理からいって、海外で手術を行うことは当然にもありえるだろう。
このように、海外で手術を行った当事者が(ここではニューハーフの職業の人だと仮定しよう)、厳格な「信頼性ある」診断ということで、もし、性同一性障害だと認められなかったとしたらどうなるだろうか。体は、性器部分も含めて、女性のそれにかぎりなく近似していて、日常生活も女性として送っている。こういった人たちに、精神科医が「心の診断」をして、あなたは性同一性障害と認めてあげます(戸籍を変えられる)、あなたは認められません(戸籍の変更は無理)、というような判定を下すことが望ましいあり方なのだろうか。物理的に体を別の性に変えていても、「心の判定」というかなりの曖昧さをもつことがらで、数少ない専門家だけに判定を委ねるというあり方を、私たちの社会は受け入れていいのだろうか。私が「なおかつ問題点は大きい」というのは、こういうことが考えられるからだ。ことに、ニューハーフの存在という希有な国である日本の場合、問題点は、早晩、顕在化してくるのではないかと危惧する。
ヨーロッパの後追いをして、法的に性別を変えていくことで、外見や日常生活での性別と登録の性を一致させることによって、当事者の困難を解消しようという方向性は、それを悪いことだとは思わないが(そういう法的処置があってもかまわないが)、日本では、それは二義的な方向性であるべきだと思う。そういった方向性を終局の目標として定めるとしたら、私は過ちを犯すことになると思う。あくまでも、性を変えて生きようとする人を、別にいいんじゃないのと普通に受け入れていく社会をつくっていくことだし、そういう人々の「心」を広げていくことこそが大切なのではないだろうか。
性別変更の条件を緩和することは「よりまし」な方向ではあるが、どんなに条件を緩和したとしても、緩和しシフトした地点で、やはり「厳格な線引き」は存在するわけで、その線引きから漏れた人は、依然として救済の埒外におかれることになる。とくに、日本のように(タイはそれ以上だと思うが)、ニューハーフや「女装者」が、層としてある程度の厚みをもって存在している社会では、救済の埒外者を多く抱えたままにしてしまう危険性がある。
だから、ヨーロッパ的に、法的な変更を一義的な方向性として考えるのではなく、外見と戸籍の性別がちがっていようがどうであろうが、保険証の性別がどうであろうが、「そういう人はけっこういるのだから、別にいいじゃないの」と、全く普通に受けとめられる社会にしていくことが、特異な国である日本がすすめていく方向だと思うのだ。今年の春も夏も、パスポートの写真と、リアルの外見とが全くちがっている状態で、成田空港の出国審査を受けた。一言も何も言われることはなかった。タイ・バンコクの空港で、そして、オランダ・アムステルダムの空港で入国審査を受けた。パスポートをちらっと見ただけで、何も言われることはなかった。少しもストレスを感じさせる局面はなかったといってよい。性別は男性だけど、姿は女性の格好をしている人も当たり前に存在するのだよ、という理解が広がっていけば、びくびくしたり、不安がつきまとったり、病院に行きにくかったりすることは、徐々に解消していくはずである。
おそらく、この点では、タイは、人権やジェンダーがどうのこうのという視点からではないのかもしれないが、性を変えて生きる人を、社会として幅広く受け入れている環境があるのだと思う。タイと同じ状況まではいかないにしても、ニューハーフ文化が育ってきた特異な国だといえる日本の場合、制度の変更に力点をおくよりは「受け入れを広げていく」ことに力を注ぐ方が、トランス者全体を考えたときには、より多数の人にハッピーをもたらすことなのだと思うのだが、いかが?