No.80 産経新聞「産経抄」に書かれた論理のおかしさ
2004年8月28日付の産経新聞のコラム「産経抄」を読んだ。
前日の朝日新聞社説への批判という位置づけである。朝日新聞の社説は、「東京の教育が心配だ」という、東京ですすんでいる教育への警鐘を書いたもので、とくに産経新聞の記事を批判したものではなかったのだが、とても過敏に反応するあたりは、朝日新聞への敵愾心なのか、それとも、現在すすんでいる東京の教育を批判するものへの過剰ともいえる反応なのか、このあたりは野次馬根性で知りたくなってしまう。
ここでは、そういう野次馬根性はさておき、批判の主張はいろいろとあっていいとしても、その論理構成がお粗末であるのには驚いた。産経新聞は、それなりの部数を販売している新聞なのだから、せめて、論理構成ぐらいはしっかりとやってもらいたいと思う。
まずは、その当該「産経抄」を掲載しておく。内容への賛否をここでのべるつもりはない。ここでは、論理構成のおかしさについてだけ言及することとしたい。
産経抄(2004年8月28日)
「東京の教育が心配だ」というきのう朝日新聞の社説の見出しに何のことかと“心配”して読めば、これが東京都教育委員会が採択した中学用の歴史教科書の問題だった。小欄の感想をいえば朝日のあべこべで、東京の教育はまあまあ安心である。
なぜ安心か。このこと一つで決めるわけにはいかないが、都教委のこれまでの方針と見識には信頼できることが多いからだ。今度の教科書採択についても、「戦争賛美」とか「侵略肯定」といった教育委員あての反対意見の文言の99%は同一だったという。
つまり反対の声はほとんどが組織された“世論”で、実際にあの教科書に自分の目を通していない? 自分で読んでいればそんな教科書ではないことがわかるはずだから。都教委の良識といえば、「ジェンダーフリー」というあやしげな用語の不使用通達もその一つだった。
この三月、都教委は都立高校の教職員百七十余人を「戒告」した。「起立して国歌を斉唱する」という通達に反した先生をいましめたものだったが、念のために書くとこれは公教育の場でのことである。このとき教師は公人であり私人ではない。
ところが朝日は社説で、日の丸・君が代を「掲げない自由」「歌わない自由」を認めるべきだと主張し、強制するな・選択の自由を奪うなと書いた。国際的マナーや礼節を教えるべき“公人”の教師が、個人的な趣味や信条を振りかざせば、どんな子供が育つか。
アテネ五輪は日本選手の健闘で日の丸・君が代のラッシュになったが、スタンドの日本人はみな国際的礼節を守り、他国の国旗・国歌にもきちんと敬意を払っていた。つまり都教委のめざすような教育がほどこされれば、まずまず“安心”していいのである。
「国際的礼節を守り、他国の国旗・国歌にもきちんと敬意を払っていた」・・・・当たり前のこととはいえ、この態度はたいへん大事なことだ。私も、大いにすばらしい態度であったと思う。少し前に、一部の人たちだとは思うが、サッカー試合での中国国民の無礼な態度、礼節もなにもないような態度がみられたことに対比して、なかなかすばらしい態度であったと、私も思う。
おかしいのはこのあとの部分とのつながりにある。こういったすばらしい態度が「都教委のめざすような教育がほどこされ」ていることが、こういう結果になったとも読めるが、これはおかしい。
都教委のめざすような教育の変化はこの2年ぐらいのことである。アテネ五輪のスタンドの日本人の態度は、この2年間に、都教委がめざしているような教育を受けたからだろうか。どう考えても、時間的整合性が合っていない。この2年間に変化した東京の教育を受けた人たちがあの場にいたとでもいうのだろうか。むしろ逆ではないのか。
変化した東京の教育を受けていない世代で、産経新聞が嫌っていそうな日教組に加盟する組合の先生たちの教育を受けた世代が、あの場所にはたくさんいたのではないだろうか。「国際的礼節を守り、他国の国旗・国歌にもきちんと敬意を払っていた」というような日本人の態度を育ててきたのは、時間的な整合性からいうと、この2年間で変化してきた東京の教育を受けたからではない。これも論理の飛躍になるかもしれないが、日教組の先生方の教育を受けてきたからこそ、あのような態度になっていたと考えることも可能である。時間的な整合性の観点から導き出すと、後者の方がよほど論理的思考ということになるのではないか。
アテネ五輪での日本人の態度を、立派であったと評価する産経抄は、同時に、これまでの日教組の先生方の教育実践を「安心していい」と評価したということになるという皮肉な結論を導き出すことになるのではないか。どう考えても、時間の整合性は、このような論理を導き出す方が、むしろ自然だ。東京の教育が「安心だ」というのであれば、現行の教育を受けた世代が五輪を応援に行くようになる10年後20年後の態度を見てから言わないと、整合性はない。
※私は、決して、枝葉末節のことを指摘しているのではない。「国際的礼節を守り、他国の国旗・国歌にもきちんと敬意を払っていた」日本人を育ててきたのはどちらの側かという根幹にかかわることにつながる論理構成の部分である。変化してきた「都教委のめざすような教育」があるからなのか、それとも、そうではない教育があったからなのか、どちらなのかということにかかわっている論理だから、ことは重大だ。論説は感情で書いてはならない。そういう文章は、大学入試であれば落第点だ。事実と緻密な論理をもとにして書くのが論説だろう。
私は、今春、タイに行ってきた。タイ国民は、国旗への愛着が強いようで、いたるところで国旗をみかける。公園では、早朝にタイ国歌が流れ、そのときには、多くのタイ人が起立している。私は、その国に行き、その国に敬意を払うということは国際人として大事なことであると考えていたので、ちゃんと起立し礼節をつくしたと思っている。
ところがところがである。欧米系と思わしき人たちは、ほとんどの人が、その場にとどまって起立するような態度がなかった。日本人と比べて、欧米系の人たちは、けっこう国旗や国歌を掲げたり歌ったりしているはずなのに、そのことが、他国の国旗国歌への礼節とつながっていなかった現実を、私は見たのだった。
自国の国旗・国歌を掲げ歌うことを、どんなにすすめても、そのことが自動的に、他国の国旗・国歌への礼節とつながっていくわけではない。この点については、私は、自分の目で見たことであるので、はっきりといえる。むしろ、「君が代を斉唱することを強制するのはおかしい」と考えている私の方が、はるかに、他国の国旗・国歌に対して礼節をつくした。そう思っている。
「自国の国旗・国歌を大切にする教育をしてこそ、他国の国旗・国歌への礼節も育てることができる」というような見解をよく聞く。はっきり言おう。これは嘘である。これについては、自分の体験として、はっきりと断言したい。
他国の国旗・国歌を含めて、そこの国民に敬意を払っていく姿勢は、多様な国民や国と共生し、自分たちこそがすばらしいというような偏狭なナショナリズムを排するところから生まれていく。サッカーの試合での中国国民の態度は、自分の国の国旗・国歌については愛国心を燃えたぎらせても、それが偏狭なナショナリズムに陥っていることで、他国の国旗・国歌を侮辱し、他国の国民に危害を加えかねない事件となったことは記憶に新しいはず。事例はまだある。アメリカ国民は国旗や国歌を掲げ歌うことが好きなようだが、イラクに対しての排撃の姿勢はみられなかったか? イラク兵を虐待したのはアメリカ国民ではなかったのか?
多様な民族との相互理解と尊重、共生の態度、偏狭なナショナリズムに陥らないようにすること。そしてこういった教育をすすめること。このことこそが、「国際的礼節を守り、他国の国旗・国歌にもきちんと敬意を払う」態度を育てていくことになるのだと思う。