No.79 アンネ・フランクの家を訪れて(「アンネの日記」の作者)

 アンネ・フランクの家はアムステルダムにあります。アムステルダム中央駅からトラム(路面電車)で10分。西教会の電停で降りるとすぐです。運河沿いにあるのですが、60年前、隠れていた場所をナチスに見つかり、強制収容所送りになり、短い生涯を閉じます。この家は、資料館にもなっており、アンネ・フランクに関するさまざまな資料が展示されています。入館料、6.5ユーロ。

←アンネ・フランクの家
 アムステルダム中央駅から17番のトラムに乗ってWesterkerkで降りる。降りて運河に沿って右方向に歩くと1分ぐらいでつく。アンネ・フランクハウス。『アンネの日記』の著者アンネ・フランクが、アムステルダムで隠れていた場所である。
 アンネ・フランクの一家は、ドイツのフランクフルトから逃れてアムステルダムにきたようだ。オランダは17世紀の半ばごろ共和制となっている。なんと、イギリスの名誉革命が1688年なので、それよりか前ということになる。市民社会の起こりということでは、イギリスやフランスに目を向けがちだが、それよりもっと早かったということになるわけで、オランダは早くから自由を求めてきた国だといえる。有名なレンブラントの絵画「夜警」は、市民がアムステルダムを防衛するため、たたかいに出るところを描いているという。
 アムステルダムに、自由を求めて移住してくる人たちが多かったという歴史的背景を知った。

←アンネ・フランクの家の前を流れる運河
 自由と寛容の国、オランダ。そしてその中心都市がアムステルダム。比べて、ドイツ社会は、ユダヤ人に対する差別意識は、たぶんアムステルダムより強かったのだろう。フランクフルトで見学したユダヤ人博物館でも、そのことをうかがい知ることができた。
 さらに、ドイツでは、ナチスの台頭によって、ユダヤ人への迫害が強まっていく。アンネの一家が、この地に逃れてきた背景は十分に納得できた。
 自由と寛容という伝統は、オランダの今に引き継がれている。他人に迷惑をかけず自己責任で行うことについては権力は介入しない・・・・このことは、民主主義社会の基本であるはずだ。それを軽んじたからこそ、ソ連型の社会主義国家は崩壊したともいえる。さて、オランダでは、売買春は合法化されており、マリファナについても5グラムまでの所持は犯罪とはならないという(ハードドラッグはだめ)。コーヒーショップという名のドラッグを売っている店が、オランダには数多くある。

「飾り窓地帯」という場所が、アムステルダム中央駅から、歩いても15〜20分のところにある。赤い光に照らされたショーウインドウみたいな中に、ブラジャーとパンティだけをつけた女性がたたずんでいる。ショーウインドウは通りに面しているため、公然と誰にでも「そういう場所」だということはすぐわかる。その場所を歩き、ウインドウのなかに入っている女性に、写真を撮らせていただく許可を求めたが、これは拒否された。そのため、残念ながら「飾り窓」そのものを撮した写真はない。
 右の写真は、その「飾り窓地帯」の中心部あたりなのだが、この写真を撮った私がいる地点のすぐ右横に「飾り窓」がある。この写真では、真ん中よりやや左側あたりに、赤いライトで照らされたような場所が見えると思うが、そこも「飾り窓」である。
 ちなみに、これを撮した時間は、夜の9時半ごろである。空はまだ闇の帳は降りていない。オランダの夏は、この時間まではまだ明るいということだ(サマータイムの影響もある)。

 

 入館料を払ってアンネ・フランクの家に入る。『アンネの日記』で読んだ、本棚に模した入口や、そこから隠れ部屋に続く階段が当時のままに残っている。中学生の頃に『アンネの日記』を読み、思春期の心にショックを受けた本でもあった。そこに書かれていた光景が自分の目の前にある。いささかの感慨を禁じ得なかった。

 たまたま、毎日新聞に連載中の「新教育の森」で、2004年8月16日は、このアンネ・フランクの家のことが書かれていた。現在、そこを訪れている人たちの様子がルポされている。私が見学者を見た光景も、個別の事例は別として、この新聞記事に書かれている通りだった。
 私が私があれこれと書くよりは、新聞記者による名文を引用することで、私が訪れたこの場所の紹介に代えたい。


左上の写真は、本棚でカムフラージュした隠れ家の入口

左下は、その入口を開けるとしつらえられている階段。ここを通って、一家が息をひそめて暮らしていた部屋へと続いていく。

新教育の森(2004年8月16日付毎日新聞・朝刊)

アンネの隠れ家を訪ねて 平和の尊さ、今に伝え−−アムステルダム

 ◇「決して忘れない」
 ◇虐殺の“象徴”、各国から続々来館

 「アンネの日記」を残したアンネ・フランク(1929〜45年)は、オランダ・アムステルダムの隠れ家で2年余りの潜伏生活を送った末、44年8月4日、ナチスに捕まった。その日から丸60年がたつ。隠れ家はいま、記念館として公開され、約600万人とも言われるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を記憶に刻む象徴となっている。記念館を訪ねると、入館を待つ世界の人々の列があった。強制収容所で15歳の命を絶たれた彼女は人々の心の中に生き、平和の尊さを伝えていた。【玉木達也】

 ■潜伏は2年余

 初夏の木漏れ日に赤れんがの壁が揺れていた。アムステルダム中央駅から車で約10分の市街地に、4階建ての記念館はある。運河と通りに面した“表の家”の背後に、アンネたちが隠れた“裏の家”が連なる。“表の家”は、潜伏に協力した人たちが勤める商会の事務所兼倉庫だった。アンネゆかりの品々が展示され、記録映画や関係者の証言が上映されている。
 アンネが隠れ家に入ったのは42年7月。父オットー、母エーディト、姉マルゴー、それに父の知人ら4人との共同生活だった。“表”と“裏”の家は3階で結ばれる。“裏の家”へと通じる廊下の奥付近に本棚を置き、入り口を隠していた。今は本棚を動かし、入り口がそのまま見える。
 入り口をくぐるようにして“裏の家”に入る。両親と姉が暮らした部屋の壁に、アンネと姉の身長を記した跡が残る。13歳から15歳へ。肩を寄せ、息を潜めた2年間余りで、アンネの身長は12センチ以上伸びたという。
 アンネの部屋は、その隣にある。6畳ほどで、家具は残っていない。壁にそのまま残る映画スターの写真などが往事を伝える。ここで、アンネは机に向かって日記を記した。目をつぶる。息苦しくなった。もっともっと、生きたかっただろう。
 「アンネの日記」は日本を含む約60カ国で翻訳、出版された。各国の本を1冊ずつ展示したコーナーもある。壁に張られた言葉が胸に迫る。

 <周囲のみんなの役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。私の周囲にいながら、実際には私を知らない人たちに対しても。私の望みは、死んでからもなお生き続けること!>=「アンネの日記 増補新訂版」(深町真理子訳、文芸春秋)

 ■感じる戦争の恐怖

 展示品を見つめるまなざしは真剣だ。夫婦とみられる年老いたカップル。男性は目が少し不自由なのだろう。説明文を一つずつ女性に読み上げてもらい、その都度深くうなずいていた。記録フィルムのコーナーでも、人々は3分間ほどの映像に無言で見入っていた。
 出口の近くには入館者の感想ノートが置かれている。さまざまな言語が埋めていた。「私たちは決して忘れない ダフィとニラ イスラエル」という英語の一文が目にとまった。小さくても確かな筆跡が、強い思いを物語る。英国の男性(24)は「私も忘れてはいけないと思う」と話し、ノートに書き込み始めた。
 カナダの女子大生3人が記念館から出てきた。「日記に感動し、ぜひ来たいと思いました。彼女はユダヤ人の悲劇を世界中に知らせる大きな仕事をした」。フィレーン・ナウレスさん(18)はこう言って、続けた。「平和が一番大切です」
 夫と来たドイツのキャスティ・ヨハイムさん(44)は「ドイツの多くの人は戦争を反省しています。アンネのような悲劇は、二度と起こしてはいけないと思う」と英語の筆談を交えて、気持ちを教えてくれた。
 日本人もいた。大学院に通う東京の男性(22)は「行くつもりだった美術館がたまたま閉館していたので何となく寄った」という。「だけど、大勢の人がいてびっくりした。見ているうちに、戦争の恐ろしさを感じた」。日本に帰ったら「アンネの日記」をぜひ読みたいとも話した。

「赤れんがの壁」というのは、冒頭の写真の左奥の建物。「赤れんがの壁」あたりが資料館の入口となっていて、手前の黒っぽい壁のあたりが出口になっている。赤れんがの壁のあたりが、その当時からあった建物だと思われる。手前の建物のあったのかもしれないが、アルミサッシの窓になっているように改装されている。(赤字の部分は、宮崎留美子が記す)