No.78 アウシュビッツを見て考えさせられたこと
2004年の7月に、ポーランドの南部、チェコに近いところに位置するオシフィエンチム(一般的にはアウシュビッツとして知られている)に行き、アウシュビッツの資料館(というより現物の展示地域)を見学してきました。
社会科(政治経済)の教員として、これまでにもナチスのことを教えてきましたが、現実の資料展示物や残された建物群を見ると、20世紀に現に起きたことなのだなあと、リアルさが実感として伝わってくるようでした。
アウシュビッツの写真もともにアップしたいと思います。メインメニューから「留美子の旅 紀行記」をクリックしていただき、そのなかにある「2004年夏 ヨーロッパの過去と現実をみる」の項目を選んでください。
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私は、これまでにも、戦争関係の資料館を訪れたことはある。広島の原爆資料館と平和祈念公園、鹿児島の知覧にある特攻隊関連の資料館、沖縄の南部戦跡。いずれも、私の心に衝撃を与えるのに十分であった。それでも、なお、アウシュビッツからは、はるかにちがった形の大きな衝撃を受けたのだった。
広島にしても、鹿児島、沖縄にしても、いずれも、戦争の敗戦色が濃くなり悲惨なたたかいを強いられたという、そういう資料物である。もちろん、こういった資料物からも、戦争の無意味さや平和の尊さを感じるのには十分だが、アウシュビッツは、それとはまたちがうのだ。感じる中心は、単なる戦争の無意味さや悲惨さではない。同じ人間が、どうしてここまでできるのかというような、自分のなかにも潜んでいるかもしれない「恐さ」をあぶり出させせてくれたことが、まずは大きい。原爆資料館や南部戦跡とはちがう、さらに大きなショックを受ける場所だった。それに、民族がちがうということが、どうして殲滅にまでつながらなければならないのかといった、私にとって理解できないことも、次にはあったこれまでも、日本の中で、被差別部落の人たちや在日コリアンへの差別はあった。私自身が、そういった差別心から解放されていたというきれいごとは言わない。私の中にも大なり小なり「差別心」はあったと思う。しかし、だからといって、そういった人たちを殲滅することの発想にはなりえない。だから理解できないことでもあった。
ただ、そういった殲滅を招いた背景には、何世紀にもわたるヨーロッパ社会でのユダヤ人への蔑視構造があるということは、フランクフルトでユダヤ人博物館を見学したときに、なんとなくはわかったような気がする。そういえば、シェークスピアの『ベニスの商人』という作品も、ユダヤ人であるシャイロックへの蔑視構造が背景にあると感じる。ヨーロッパでのユダヤ人問題は相当に根深く、アウシュビッツにも関係してきていることをうかがい知ることはできる。
中高生の修学旅行などでの平和教育は、絶対にアウシュビッツがいいなとは思うのだが、いくらなんでもヨーロッパ旅行となるので、これは現実には無理。
アウシュビッツは、日本からはなかなか行きにくい。ポーランドは、2004年5月に新たにEUに加盟したこともあって、社会主義時代に比べれば、ビザも不要になり行きやすくなったと言えよう。しかし、ポーランド・ワルシャワのショパン国際空港への直行便はない。どこかの空港を経由することになる。
ここからがまたけっこう距離がある。EC(ユーロシティ)という特急が出ているが、それでも、ワルシャワからクラクフまで列車で2時間半。クラクフからオシフィエンチム(アウシュビッツのポーランド名)まで、鉄道で行くにしろバスで行くにしろ100分程度かかる。バスだと、クラクフから、アウシュビッツのその場所まで行くことができる。料金は8zt、およそ250〜70円程度。旧社会主義国だっただけに、こういう公共交通機関はきわめて安い。私の場合は、クラクフに宿をとり、早朝にクラクフからアウシュビッツに向かうことにした。
ガイドブックを買う場合にはお金がいるが、施設への入館料じたいは無料。ガイドブックには日本語版もあった。この施設の整備に、ドイツが資金を負担しているということや、休業中には、ドイツ人の学生ボランティアとして整備に来たりするという。日本のことを振り返ってみた。日本は、南京大虐殺の資料施設の整備に資金を出しているだろうか。学生がボランティアで行ったりするだろうか。戦後のドイツが、侵略された国の人たちから嫌われることなく信頼を勝ちとってきているのも、このあたりの、国の戦後の姿勢にあるように思える。ナチス時代にドイツが行ったことについて、徹底してその反省を行ってきているように思える。
ヨーロッパでも夏季休業中だと思うが、学生、ないしは高校生らしき集団の人たちが、懸命に話を聞いている姿があちらこちらでみられた。また、家族連れできていて、親が子どもに説明している様子もけっこうみかけた。オランダ・アムステルダムでアンネフランクの家を見学したときも、子どもに説明する親の姿があった。原爆資料館にもそういう家族はあるが、私が行ったときには閑散としていた。アウシュビッツには、戦争中の問題を一緒に学んでいこうとする親子の姿がかなり見られたことに、ヨーロッパに比べて、日本の平和教育は、学校でも家庭でも形骸化してきているのではないかと気になる。
アウシュビッツのゲートに「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」との文字が掲げられている。収容者たちは、どういう思いでここをくぐったのだろうか。事実は、働けば、本当に解放されて自由になったのではなく、死ぬことで、現実の苦しみから自由になったのにすぎなかった。
収容所内は、ポプラ並木が天を突くように伸びている。何も知らなければ、赤煉瓦づくりの家並みが規則正しく並んでいる光景で、平和を取りもどした今は、ポプラ並木の緑と煉瓦の赤の配色がなかなか美しい。とはいえ、少し目を転じると、当時は高圧電流が流れていた二重の有刺鉄線が、周りを囲っているのに気づく。
歩いていき、いろいろな資料物をみると、そこには、人間を殲滅した痕跡が残っているのだ。銃殺刑に処した「死の壁」と言われているところが宿舎棟の間にしつらえられている。当時の収容者たちは、処刑者をどのような気持ちで見ていたのだろう。首つり処刑を行った場所もある。そして、処刑した人たちを焼いた焼却所も残っていた。
煉瓦造りの宿舎内は、今は、さまざまな資料物の展示になっている。数多くの写真が展示され、やせこけた裸の子どもの姿をは凝視するのはつらい。当時、実際に使われていた場所のトイレが、その場所に保存されているが、トイレどうしの仕切がない。男性の小用のトイレのことではない。大用、ないしは女性用のトイレに仕切がないのだ。プライバシーもなにも考慮することはなかったのだろう。収容者が、人間として扱われていなかったことを示している。蚕棚のような寝るときの個人空間にもショックを受けた。それしか個人空間がなかったともいえる。
本で見たこともあったのだが、実際に見たすさまじさに息をつまらせたのは、おびただしい、死んだ収容者の個人所有物の山だ。眼鏡が本当に大きく山積みになっている。おびただしい数の靴ブラシの山もあった。トランクの山もある。バッグの山もある。これだけの山をつくるには、どれだけの収容者が殺されなければならなかったのだろう。めまいすら覚える。
布みたいな展示物があった。しかしそれは、単なる布ではなかった。人間の髪の毛で織った布だったのだ。死んだ人間の髪の毛で織った布を実際に使っていたのだろうか。狂気以外のなにものでもない。しかし、その狂気を、ナチスは、それを当たり前のごとく行っていたのだった。
ユダヤ人は劣等民族。そういう民族と、ゲルマン民族の血が混ざるととんでもないことになり、国は崩壊する。真面目にそう信じ込み、今では狂気と思えることであっても、自分たちは正当なことをやっているのだと思っていたにちがいない。普通の気のいい父親や母親が、環境しだいでは、残虐な仕打ちを当たり前にやってのけるということになるという、そのことに、私であっても、自分がそうなることもあるのではないかと振り替えざるをえなかった。
おかしな時代になる最初のころは、そんなにムチャクチャだと思われる行動を強いられはしないだろう。「おかしいな」とは思うものの、しようがないかなあという程度で納得してしまうこともあるのではないか。それでは抵抗できるのかと問われると、クビになり生活を壊すことを覚悟してまでのことには二の足を踏む。権力に抗うことはそう容易ではない。
現に今、私も「おかしいな」と思うことはあるのだが、世間の人たちの多くは、おかしいと思わず受け入れていることもあり、なかなか抗いにくい。クビになることへの恐さもある。きっと、当時のドイツでも同じような悩みを抱えた人はけっこういたのだろうと思う。
ユダヤ人を差別していくことを「おかしい」と思っていたドイツ人は少なからずいたと思う。しかし、そのときには、ナチスのさまざまな宣伝によって、ゲルマン民族の優秀性とユダヤ人の劣等性を当然と思う人たちが多くいて、「おかしい」という声をあげにくくなっていたことは想像できる。このようなとき、英雄でもなく強固にたたかう意思を持った人でもない市井の普通の人は、どのような「抗い方」があるのだろうか。
よその国の話だとのんびりしている状況ではない。どうも最近、私たちの国も、国家がやっている方向とちがったことを行う人に対しては、すさまじい非難が起こるような「寛容性を失った」社会になっている気がする。そして、権力の側も、抗う人に対して抑圧する傾向が生じてきている気がする。何かおかしいぞと感じるのだが、どういうふうに抗っていけるのか、そこがわからない。だからもどかしい。60数年前、ナチスドイツであったことが繰り返されない保障はどこにもない。
マルチン・ニーメラー牧師の言葉を、最後に引用しておきたい。
ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。
それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安をましたが、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。