No.73 性同一性障害もトランスジェンダリズムもどうでもいい

 このエッセイに出てくるニューハーフ(トランスジェンダー)は、すべてタイのバンコク市内、もしくは、リゾート地バタヤで、私のカメラで撮影したものである


 タイの国民性を理解するキーワードとして「マイ・ペン・ライ(気にするな、なんでもない)」「マイ・キャオ・カン(関係ない)」「サバーイ(元気だ、調子いい)」「サヌック(楽しい、面白い)」があるという。めんどうなことは嫌だ、管理されることは嫌、自分に迷惑がかからなければ他人の生き方は自由にどうぞ。と、まあ、こんな感じといえるだろうか。一般の人にとっては、キリスト教文化やイスラム教文化のような戒律はほとんどないといっていい(修行僧は別)。こういった国民性が、トランスジェンダーや同性愛者などの性的少数者が生きやすい背景となっている。
 タイの食材豊かな美味しい料理、のんびりとのびやかに進む時間、物腰が柔らかな人が多いなどのことと相まって、一度、タイに行ったらはまってしまう人が多いというのにもうなずける。チェンマイ空港で出会ったイスラエルのトランスジェンダー(男性から女性、MTF)も、もう数限りなくタイに来ていると言っていた。自分をあたたかく受け入れてくれるタイの空気の心地よさに虜になってしまったのかもしれない。そういえば、私自身についても、何度となくフレンドリーな言葉をかけられ、収入の問題さえクリアされたならばタイに移住してしまいたいと思うぐらいに、心を奪われそうになってしまっている。 


 日本では、「性同一性障害は病気だ疾患だ、だから病名を認定してもらい、治療して本来の性になって戸籍を変更する」というような、医療側、とくに、診断する精神科医が当事者の生き方をも決めてしまいかねない傾向がみられる。その一方では、当事者の問題が医療に囲われているあり方を批判し、本人の生き方の問題として対置するトランスジェンダリズムの運動がある。アメリカのヴァージニア・プリンスがトランスジェンダーという表現を行い、そういった運動から影響を受けているようだ。
 日本でも、かなり前から、ゲイボーイ、ミスターレディ、ニューハーフなどと呼び表されてきた当事者がいたのだが、性同一性障害という疾患として自分をとらえる人たちの中には、「あの人たち(ニューハーフなど)と自分たちとはちがう。あの人たちは元男をウリにして仕事をしているが、自分たちは本来的に女なのだ。だからちがった存在なのだ」と、ことさらに区別するような発言を行う者もいる。
 馬鹿馬鹿しい!! タイの空気に触れた私にとっては、そういった類の話を聞くだけで「あほらしいことを言っているなあ」とうんざりしてしまうのだ。分ける、対置する。なんでそういうふうに話が進んでいくの? タイの雰囲気にはまってしまった人は、たぶん、私と似たような感想を持つのではないだろうか。
 日本では、「性同一性障害は病気である.医師が診断する病名だ」という理解がけっこう広まっている。医療に囲われるあり方を批判する側の人ですらも、性同一性障害は「精神疾患の診断カテゴリー」として、依然として疾患の診断名という考え方にとらわれてしまっている(注)。医学用語に起源を持つ言葉であるとしても、なんで、相手側の論理に乗ってしまうの?と不思議でたまらない。しかしこれも、よく考えてみると、性同一性障害という疾患問題としての動きに対して、トランスジェンダーを対置したという出発点に起因するかなと思うようになった。自分たちの立場は、医学に囲われた性同一性障害を軸とする動きとはちがうのだということなのだろう。対置するがゆえに、性同一性障害を疾患としてしまうとらえ方では、両者とも一致することになってしまう。
(注)三橋 厳密に言えば、性同一性障害は精神疾患の診断カテゴリーですから、診断できるのは精神科医だけです。自分が性別違和感をもっていることは自覚できても、それに「性同一性障害」と診断を下せるのは医者です。(オンラインマガジン・セクシュアルサイエンス3月号)

 この点、タイの当事者は、かなりちがったとらえ方をしている。
 タイの多くの当事者に聞いてみた。「性同一性障害(GID)を病気だと思いますか?」と。私が聞いた当事者は、その全員ともが「NO! GIDは病気ではない」という。そのなかの一人(学校で英語教師をやっている人)は、「GIDを病気だとするのは欧米の誤った考え方だ」と、はっきりと話してくれた。
 医療側の人も同じことを言っている。当事者に会うためにコーディネートしてくれた性転換手術を行う病院の秘書の方は、顔をしかめるようにして「GIDは病気なんかではない」とはっきりと言う。その病院の医師も、「GIDが病気ではないと考えるのは世界の趨勢だ」といういい方で語っていた。
 アメリカではどのような判断になっているのかは知らないが、日本では、「性同一性障害は精神疾患の診断カテゴリー」という受けとめ方を、どちらの立場の人でもおこなってしまっているのではないだろうか。性同一性障害を精神疾患とみていくこと自体に「NO」といえるはっきりとした意思、しかも、「欧米の誤った考え方だ」と言い切る自信。世界の中でも最も大らかに受け入れられているからだろう。タイの当事者には、このような「強さ」があるような気がする。とはいえ、その「強さ」をあからさまに表に現すことはない。そこには、マイ・キャオ・カンがありサバーイがあり、サヌックの国民性が横たわる。性別に違和感があるという現象は、その人にとっては、とりたてて病気という嫌なことではありえず、サヌックであることなのかもしれない。自分が性同一性障害であることを、暗く、辛く、嫌なこととして受けとめる日本とは大きく違っている。
 性同一性障害であることが辛いことなんかではなく、むしろ、それを楽しんでいるとすら思えてならない人たちに数多く出会う。カリプソやマンボ、アルカザールなどの芸術の域ともいえる大規模なニューハーフキャバレーのショーのダンサーは、実に華やかで美しい。キャバレーのダンサーからとらばーゆした学校の先生は、活き活きと授業を行っている。性転換した人たちばかりが明るいのではない。男モードと女モードを行きつ戻りつしている人も、屈託なく自分を恥じることなく堂々と生きている。
 性を変えて生きている人のミスコンテストも華やかに行われている。今年は、バンコクから車で2時間余りのところにあるバタヤで、「ミス・アルカザール・タイランド」と「ミス・ティファニー・ユニバース」が競うようにしてコンクールを繰りひろげる。いろいろな企業がスポンサーになって大々的に開催され、コンクール見学に、日本からのツアーも仕立てられているといった大々的なイベントとなっているぐらいだ。ショーダンサーではなく普通の仕事をしている人たちもエントリーし美を競う。性同一性障害だから病気なんだと悩むのではなく、自分がありたい生き方をスルスルと生きていっている人たちを多く見ることができた。18歳ごろになると、両親がお金を出して、自分の息子に性転換手術をしてあげるということもけっこうあるらしい。息子が女性として生きていくことを、恥ずかしいことだとかやめてほしいなどと思い悩むことなく、子どもがいきたい道を歩ませることを飄々とおこなっているらしいのだ。まさに、マイ・ペン・ライだ。

 アメリカはどうだろうか。
 「ボーイズ・ドント・クライ」という映画があった。アメリカの南部の州の実話をもとにしているのだが、FTM(女から男)の人が、差別と偏見の中で、最後には輪姦されて殺されるという悲惨な結末で終わる。「ロバート・イーズ」という映画もあった。FTMの当事者が最後には癌に冒されて亡くなってしまうのだが、映画のなかでは、トランスジェンダーの集会への情熱なども描かれている。両方の映画とも、けっこうシリアスな映画だ。そして、なんといっても暗い。
 性を変えて生きようとする人たちを扱ったものとして、日本語に訳されたタイ映画として「アタック・ナンバーハーフ(原題 サートリー・レック)」があるが、実に明るい。コメディタッチの部分もあるが、見終わったあと、性的少数者を差別することの馬鹿馬鹿しさが伝わってくる描き方になっている。明るく軽やかに描かれているものの、偏見をもつことの無意味さを真面目に訴えている。
 いったい、殺されかねない状況があるなかで、それゆえに、人権を対抗概念として「性を変えて生きる側のたたかい」として訴えなければならないアメリカと、マイ・ペン・ライであって、サバーイ、サヌックの精神で、他人の生き方を軽やかに受け入れるタイとを比べたとき、私たち日本は、どちらを参考にしたらよいのか。私は、一目瞭然ではないかと思うのだ。
 キリスト教文化圏でもない日本が、何で、アメリカ的な、黒白をはっきりさせるような運動の考え方に染まらなければならないのか。性同一性障害を病気だとしてしまう考え方に染まらなければならないのか。
 性転換したいという強い願望があれば、医師は、性を変えてもちゃんと生きていけるかどうかの見極めという診断を行いながら(決して、病気だからという診断ではない)、本人とのカウンセリングのもとに必要な手術を安価に行うこと。そのあと、性を変えて生きるとき、社会的にも、マイ・キャオ・カン、どうぞ勝手にやればと、うるさく考えることなく受け入れる。手術をしない人も、サバーイ、サヌックと、人生を楽しく生き、周りも、自分に関係なければなんでもありでいいよと受け入れる。人権とか「たたかい」とか、そんな堅苦しいことを言う必要もない。日本が、この境地にまでなることができるかどうかはわからないが、少なくとも、アメリカ的な発想に染まる必要は全くないと、私は思っている。
「ミス・アルカザール・タイランド」にエントリーするためにバックアップのスポンサーの事務所に申し込みにきたトランスジェンダー

 性同一性障害でとらえようと、医療に囲い込まれるあり方を批判するトランスジェンダリズムも、はっきりいってどうでもいい。そんなに、運動を黒白で分けるなよと言いたくなってしまう。世の中には多様な人がいる。どんなあり方であっても、自分に金銭的に迷惑にならなければ、その人のありようをそのまま受け入れればいいではないか。そんなに、いちいち「運動」を構築する必要もない。それよりは、日本でも、ニューハーフ・トランスジェンダー・性同一性障害(・・・・うーーん、そんな区別、どうでもいい)のミスコンテストを、企業スポンサーをつけて、テレビ局も巻き込んで、大々的に行なうのも一考。だって、もともと日本には、しっかりと、ニューハーフの人たちの文化があったのだから。そういう文化の上にたって、ショーや接客業に従事していない人たちも受け入れられていくことを考えてみたらどうだろう。ショーや接客業の従事者と、そうではない普通の仕事との間のとらばーゆも、もっともっとゆるやかになって、うんと垣根を低くしたほうがいいと思う。

 私は、公民科の教員として、授業で、人権をいかめしく語ってきた。もちろん、人権概念は大切だ。でも、「人権」の旗を振って君臨するアメリカのあり方が、本当に未来を示し得ているだろうか。人権を声高に言うアメリカがイラクで何をやってきたか。性を変えて生きようとする人を殺害したり、同性愛者を差別したり、人権を高らかに誇るだけの価値がある国なのだろうかと、最近は疑問に思うことがたいへん多くなってきた。一方で、人権なんていう言葉は聞かないけれど、マイ・ペン・ライ、マイ・キャオ・カンで受け入れるタイの方が、もっともっとすてきなことなのではないのか。人権概念ですべての幸せを語ることはできない。人権概念で語っていくことには限界があるし欧米思想が優越するわけでもない。
 そういえば、タイは、この250年間、戦争らしき戦争をしていない。タイで「戦争」といったときには、ビルマ軍がアユタヤに攻めてきた250年も前のことを指している。この60年、ベトナム戦争を初めとして、数多く、戦争を重ねてきたアメリカで、そこで語られた発想は、それほどまでに参考にすべきことなのだろうか。少なくとも、60年間は戦争に加担してこなかった日本。そして、大乗仏教の日本と上座部仏教(小乗仏教)であるタイとのちがいはあるけれど、仏教文化に影響を受けている同じアジアの国ではないか。性を変えて生きようとすることも含めて、性的少数者の問題を考えるとき、私たちの日本は、アメリカからの発想法を取り入れるのは、このあたりでやめておき、もっともっと、アジアの国のすてきなあり方から学ぶ必要があるのではないだろうか。