No.61 神戸で出会った人たち 


神戸で出会った人たち

 2003年5月下旬、セクシュアリティ・カウンセリング神戸(※)というところが主催した催し物があった(後援:神戸市教育委員会)。「トランスジェンダーが語る多様な性」ということで話をしてほしいという要請があり、私も大いに乗り気になり、話をさせていただいた。
 今回は、この講演の内容を語ろうということではない。ここで出会った2人のことについて書きたいと思う。

(※)「セクシュアリティ・カウンセリング神戸」東靖男さんが代表、事務局長は谷家優子さん.
東靖男さんの娘さんは、トランスジェンダーに関わる問題も研究されメッセージを発信しておられる大学の先生、東優子さん.

 下の写真は、懇親会の場で、東靖男さんを真ん中にして、私(左)、MTFの高校生(右)と、トリプルショットをしたもの.東さんの人柄にとても惹かれてしまいました(東さんの写真映りと笑顔には、グッと惹かれるものがありますねえ).そしてまた、MTFの高校生と出会えたことはうれしいことでした.

 一人は高校生。遠いところから聞きに来てくれて、こんなにうれしいことはなかった。講演後の懇親会にも出席してくれた。主催者の配慮で、その高校生は、私の横の席に座ることになった。おかげで、MTFの彼女と話す機会がもてたことはうれしかった。
 「職業病」なのだと思う。大人の方と話すのももちろん楽しいのだが、高校生と話すのはことの他楽しい。自分自身が、その年齢の頃に悩んでいたことで苦しんでほしくないし、少しでも「大人の知恵」を伝えてあげたいなという気持ちがとてもある。
 MTFの高校生は、やはり、私が悩んできたことと似たようなことを、今、経験している。でも、私とは、体験が少しちがう。私の場合には、誰にも相談する相手がいなかった。学校の先生などは、相談対象にすら考えなかった。彼女には、相談する先生がいるところが、私とは相当にちがうところだ。養護教諭(保健室の先生)は、彼女のことを理解しようとつとめている。体の性別で割り振られる性のあり方に悩む気持ちを、懸命に受けとめようとしていた。私の思春期とはかなりちがう状況だ。時代の変化を感じずにはいられない。
 個々の具体的なことは、このエッセイでは書かないが、多少の軋轢はあっても、自分に正直に、「自分らしく」生きてほしいと、MTFの彼女には祈念したい。

 講演が終わると、会場で販売されている著書へのサインなどを求められる。ありがたい話であって、私のサインでよければ、どれだけだってするつもりでいる。私と握手することで、少しでも楽しんでいただけるのならば、どれだけでも対応したい。でも、時間はかかる。
 ここに、私がサインなどで対応しているのを、じっと待っている男性がいた。一区切りついたころ、男性は、私のところに寄ってきて、なにやら自分が(書いたもの)を私に渡してくれた。そして、ほとんど話してくださらないで去っていってしまった。
 講演の日の夜は、懇親会があり、その後は、兵庫性教協の方と一献傾けながらの意見交換もあり、ホテルに戻ったのはかなり遅かった。翌日は翌日で、東京に帰ることで精一杯で、その手紙(書いたもの)を読む機会は、さらに後になった。勤務が始まると、授業準備その他で、(書いたもの)がそのままになっていた。申し訳ない。
 数日後、その分厚い(書いたもの)を手にとって読むことになるが、私は、我を忘れて、ぐいぐいとその内容に引き込まれていく自分に気づいた。小さい頃からの、ご自分の悩みが切々と書かれている。女性の衣服に惹かれていく自分、ブラジャーやパンティをどうやって買うか。小説家のような文章のうまさはないが、ご自分の体験そのものだけに、リアルさがひしひしと伝わってくる。
 女性がつけるものであるブラジャーをしたときの、その安心感。わかる気がする。私の性のあり方は、この方と全く同じではないのだが、気持ちは伝わってくる。フェティシズムと簡単に言うなかれ。性のあり方はそう簡単ではないのだ。女性の下着に執着をもつ。そこに性的な快感を感じる。たぶん、精神科医は性的なフェティシズムだとの判断を下すかもしれない。
 性的なフェティシズムは、そこに性的な興奮を覚えなければならないのだが、女性の下着を身につける気持ちは、決してそういう性的な興奮を求めることばかりではない。「女性が身につけるものを、今、自分の体につけている」という安心感のゆりかごのなかに、ゆったりと身をおく気持ちは、性的興奮とはけっこうちがう。
 この気持ちの当事者でなければ、このことをどんなに話してもわかってもらえないということはあるだろう。私とて、半分はわかるとしても、完全にリアルにわかるわけではない。でも、できるかぎり想像力を働かせ、自分にとっての「安心感のゆりかご」とは何なのかということと関係づけて理解しようと努める。
 自分に理解できないことを「排除する」とか、「自分たちとは関係ない」と切り捨てることのない姿勢を持ちたいと思う。多様な性のあり方の人との「共生」は、そこからしか始まらないのだから。