No.56 


 私が(2003年の時点で)勤務する高校で発行している図書の冊子に載せるということで原稿依頼があり、書かせていただいたものです。
その冊子は、2003年3月に発行されました。
(写真は、1枚目は「東京レズビアン&ゲイパレード2005」のもので、2枚目は「東京レズビアン&ゲイパレード2002」のものです。このホームページに転載するにあたって、挿入いたしました)



 虹を見たことはあるだろう。赤から紫まで色が微妙に移り変わりながら、それでいて、色どうしは一色に混じりあうことなく並んでいる。
 私も、たぶんそうなのだろうが、セクシュアルマイノリティと言われる人たちがいる。この人たちの中には、長い年月、自分のことを肯定できずに悶々と生きてこざるを得なかった人も多い。「私は同性愛者だ」と表明したとき、今の社会では、その人に対しては冷たい視線が向けられ、生活の中で排除されることもけっこうある。また「私は女性でありたい」と願うトランスジェンダー(性同一性障害を持つ人)の場合、スカートをはき化粧して行くことを許容できる集団は、今の社会ではまだまだ少ない。
 あの人たちは常識とちがうことをしているのだからと一瞥するなかれ。もし君たちの誰かが、同性愛が多数で異性愛が少数である集団に投げ込まれたと仮定しよう。周りから「異性を愛するなんて変態だよ」と言われたとしたら、そこで自分を変えることができるだろうか。このように、逆の立場に置きかえて考えてみると問題点がよくわかる。「常識」には、一面では、少数者を排除する役割を果たす機能がある。学問というツールを武器にして、これまで当たり前だとされてきたことがらを、ひとつひとつ問い直していくことが、21世紀を生きる私たちに必要とされる態度なのかもしれない。そして、自分にとっての「常識」が崩されたとき、人は、目から鱗が落ちたかのごとく新しい視野が広がっていくことに気づく。
 人のあり方の多様性は、性にかかわることだけではない。性格、ものの感じ方、価値観などで見ていったとき、学校のなかには様々な人がいることがわかる。しかし私たちは、周りの多数の人とちがう態度を示すことは、なかなかできないでいる。嫌なやつ、おかしなやつと思われてバッシングされないだろうかと恐怖感をいだく。そして、無理に周りに合わせたフリをするが、当人にとってはこれほどつらいことはない。
 もし、虹のそれぞれの色が一色に混じりあっていたら、どす黒い汚い色でしかない。しかし虹は、「それぞれの色」という個性を出しながらも微妙に少しずつ違っていき、そして仲良く併存している。だから美しいと感じ私たちは感動する。人間社会もそうだ。周りに合わせて一色になるのではなく、個性が違う人々が「自分らしさ」を大いに出しあい、ちがいを相互に理解しあいながら共生していく姿に美しさを感じるのではないだろうか。
 そういえば、セクシュアルマイノリティを象徴するものはレインボーカラーだ。彼らのアピールの場では、この象徴色をよく見かける。多様な個性の人たちが、互いに理解しあい共生していこうという願いが、このカラーに込められている。


 このエッセイをアップしたところ、ある方から、トランスジェンダーと性同一性障害はイコールとはかぎらないので、「トランスジェンダー(性同一性障害を持つ人)」という書き方はおかしいのではないか、というメールをいただきました。
 知恵蔵2001には、トランスジェンダーの用語の説明として、次のように書かれています。

服装やふるまい、性器や性的アイデンティティーなどにおいて、性別の境界を超えたり、境界を無視する等によって、固定的な男女二分法を乗り越えようとする動きを広くトランスジェンダー(transgender)と呼ぶこともある

 トランスジェンダーという用語の意味はかなり幅広く、これまで、肉体の性を変えようとまでは考えていないけれども性役割を変えていこうとする人たちのこと、また、広義としては、肉体の性を変えていこうとする人たちも含む意味として使われてきました。
 私自身も、知恵蔵に書かれている意味がふさわしいと考えるものです。しかし、トランスジェンダーという用語は、性同一性障害の語に比べると、世間的な認知度が格段に低いこともあり、わかりやすい用語で説明するために、性同一性障害を持つ人という言葉を、トランスジェンダーと同じような意味で使う場面があります。
 両者を厳密に分けて語らなければならない場面と、両者を分ける意味がほとんどない場面とがあります。一般の人に、同性愛者もいてトランスジェンダーもいて・・・というふうに、多様な性の話をする場合には、一般的に認知されている用語を使って説明することは、むしろわかりやすくする意味でも大事なことだと思っています。
 講演のときの演題に、トランスジェンダーの語を使って呈示したとき、主催者側の方から、「トランスジェンダーという言葉はほとんどの方が知らない.性同一性障害の語を使った演題にしてほしい」との要望がありました。もっともな話だと思います。
 上の文章は、多様な人たちが共生できる社会であってほしいという願いを、高校生がわかるように書いたものであって、細かな差異をあげつらう場面ではありません。トランスジェンダーだけではよくわからないこともあり、近い意味で、ある程度認知されてきた「性同一性障害」の語を並記することによって、わかりやすくしたものだと考えていただければ幸いです。


(2004.5.9に再加筆)
 上記、1回目の加筆時点では、「両者を厳密に分けて語らなければならない場面と、両者を分ける意味がほとんどない場面とがあります」と書いています。この時点では、トランスジェンダーと性同一性障害とは、正確に語る場面では区別するという考え方をしていたと思われます。
 タイを訪問し、多くの当事者と出会い語りあうなかで、私のとらえ方も変化せざるを得ませんでした。タイの当事者は一様に「性同一性障害は病気ではない」と自信をもって話します。当事者のなかには「病気だというのは欧米の誤った考え方」とすらいう人すらいました。私には驚きであると同時に、日本の状況との違いを目の当たりにしたのです。日本では、性同一性障害を病気だとみなして、医療での「治療」概念に傾倒してきた当事者のあり方が目につきます。治療があるから病気なのだという短絡したことをいう当事者もいます。医療行為があることが、即、病気とはならないということは、美容整形の例を考えればわかるように、医療行為があることを病気だと考えるのは誤りです。性同一性障害を病気とは考えなくても、当事者の心の安定をもたらすための医療行為を行うようにすることは、決して不可能なことではありません。(※日本の場合、法的に整理しなければならない問題は抱えている)
 タイでは、性同一性障害に対置してトランスジェンダー概念をもってくることはありません。MTF(男から女)のケースだと、ちがいをあげつらうのではなく、レディボーイとしておおらかに括って語る人がほとんどです。もともと2つに分けて定義することが難しい概念を、無理矢理に厳密化して分けるということの方に私は疑問を感じます。トランスジェンダーの語は、アメリカのヴァージニア・プリンスという人が生み出し、性を越境するあり方が医療に囲われることがない運動として当事者から使われ出した言葉だと聞いています。性同一性障害のように医療側から命名された言葉ではないことに自立性を感じてはいますが、それでも、性同一性障害の語に対置するという意味で、黒白を分けて解釈しようとするアメリカ的な発想なのかなと思います。一方、タイでは、このように黒白に分けて考える発想は少ないように感じました。
 現実の社会としては、とくに、アメリカの南部では、トランスジェンダーであるというだけで殺されかねない現実
(※)もあります。それに比べて、タイでは、トランスジェンダーを実に大らかに受け入れている状況があります。黒白に分けて考えていく発想法が、決して人々にハッピーをもたらすとは限らないのではないか、というのが、私がタイの現実から学んだことでした。
※「ボーイズ・ドント・クライ」は、実際に殺された事実をもとにしてつくられた映画
 現在は、性同一性障害とトランスジェンダーの意味を分けて使うということに無意味さを感じていますので、どちらの言葉とも、似たような意味で使っていくつもりでいます。性同一性障害の語を、医師が認定した「医学用語」というふうに限定して、トランスジェンダーと分けて語る姿勢はナンセンスであると考えるがゆえに、私はそのあり方をとりません。