No.54 事実は脚色されて語られた事象
事実は脚色されて語られた事象 「ただしさ」と「かしこさ」だけでは納得させられない
「あらゆるニュース報道は、報道者による脚色された事実である」
ニュース報道を鵜呑みにしてはならないということは頭ではわかっていたが、ここに、自分のことがからんでくると、痛切にそう感じる。さらには、ねじまげて伝えようとする意図があれば、話を少し書き換えるだけで、読み手に全く逆の印象を与えてしまうことが可能であると、私のことを書かれた腹立たしさと同時に、言説発信者のひとりとして、自分がそうしてはいないのかと恐さを感じた体験があった。
私を攻撃する次の書き込みがなされた。
ここで書かれた発言を、私が、女性団体の講演で行ったというのだ。こんなことは言っていない。このように書かれると、私が話した主旨を完全にねじ曲げて伝えていることになる。言説を発信すれば、誹謗中傷を受けることもでてくるという証左なのかもしれない。
とある女性団体での講演で「皆さん、痴漢に遭ったときほんとうに嫌な思いだけでしたか?内心少しはうれしかったのではないですか?」とまで発言、周囲の大顰蹙を買った
女性団体で講演したのは1回しかない。人前で話をすることがかなり回数になると、どこで何を発言したのかを逐一覚えているわけはない。女性団体での私の発言がどうであったのかは定かではないが、女性団体とはちがう別の場所で、次のようなことを語った記憶はある。
生涯、1回も痴漢に会ったことがなかったとして、「私の人生はラッキーだった」と思うかどうか
女性の人権を踏みにじり、相手の合意なくして、自分の欲望のはけ口としての痴漢行為が卑劣であるのは当然の前提として、ここでは、セクシュアリティの微妙さという別の視点からの話をした場面であったわけで、痴漢行為をいささかも容認する主旨ではなかった。
この前段として、次のような経験談を聞いたことが下敷きとなっている。
障害を持つ女性がいた。傍からみて、明らかに障害をもっている人だとわかる状況の人だった。その人が、あるときに、電車の中で痴漢にあったという。痴漢にあうという唾棄すべき体験なのだが、このことをきっかけに、その女性は明るくなったというのだ。
障害をもっている。だから、周りは、自分を女性扱いなどしてくれないと、たぶんそういう思いだったのだろう。もちろんここには、女性として認められるかどうかが男性側の「扱い」の反映であるというように、ジェンダーの視点からいうときわめておかしな考え方だといえるのだが、だからといって、その障害をもった女性が思っている気持ちをトンデモナイことと非難する権利が誰にあるだろうか。
一方では、障害者に卑猥な行為をしても、相手は訴えないだろうから安全だなどという、立場の強弱を利用した、障害者への差別と女性への差別という二重の卑劣な行為を行っていることが、この問題のウラに潜んでいる。だから、こういった問題を語るのは、誤解を招くこともありとても難しい。二重の人権侵害を行った痴漢をいささかでも容認することはできない。かくして、セクシュアリティの微妙な彩を語ることは、人権問題との間で、まさに綱渡りをすることになる。それでも、封印し口をつぐむことになれば、私たちの視野は広がらない。こういった問題に触れるのはリアクションを考えればもちろん恐い。それでも、話さないことは話すことよりもっと悪いことだと考えて語る場面もあった。
話は私のことに飛ぶ。
大学に入る前なので、20歳にはなっていない若い頃のことだ。当時、東京で大学浪人をしていて予備校に通っていた。しかし、親元を離れたこともあって、ときどき(しばしばか?)女装しては電車に乗り新宿などの繁華街を歩いていたことがあった。若く、自分の性のリビドーをコントロールできにくい年齢ということもあったのか、男性である自分が嫌で、女性でありたいとかなり一途に思っていた時期だった。
この時期、電車のなかで、初めて痴漢にあう体験をした。ここらあたりのいきさつは、私の本『私はトランスジェンダー』に詳しく書いているので参照していただきたいのだが、ここでは、今回のエッセイに関係する部分を引用しよう。
痴漢という人権を冒涜する行為ですらも、セクシュアリティが織りなす彩のなかでは、自分のアイデンティティを確認することになることだってありえたのだ。現在のように、フェミニズムもなく、性同一性障害よトランスジェンダーよと言えなかった昔は、十重二十重に入り組んだ心理状態があったとしても不思議ではない。今の状況を知るだけで過去を推し量ってはいけない。
必死に電車を下り、やっとの思いでアパートの部屋にたどり着く。部屋の真ん中に座り込んだとたん、全身の力が抜け、さっきのことが、痴漢のことが、何度も何度もフラッシュバックする。まだあのときのショックと興奮で体中が火照っていた。
たしかにとてもショックだったのだが、時間が経つと、心の片隅では別の声も聞こえてくる。
「自分は女性だと思われた」
「痴漢されるという《女性ならではの立場》になれた」
ひどい目にあったというのとはすこし違う別の気持ち。
「痴漢は女性に対する冒とくである」
このように言い切るのはたやすい。痴漢をするときの男性が、相手の女性の人格や感情をまったく無視していることは明白だ。女性を自己の欲望を果たすためのモノとして見ている、というのもよくわかる。
しかし、しかしである。私はあえて言いたい。
私たちのようなトランスジェンダーの場合、男性からの痴漢行為を通して、自分の「女性性」を確認する、という屈折した心理が働くことがないと断定できるだろうかということ。もちろん、トランスジェンダーの人がみんなそうだというわけではないが。
生物学的に女性に生まれていれば、自分が女性であることを他人から確認してもらおうなどという発想すらありえないだろう。スカートをはくのも、化粧をするのも何もためらう必要はない。でも、男性に生まれたら、女性でありたい、あるべきだと思い、他人からも女性と見てもらいたいと願っても、それは容易なことではない。だからこそ、女性として見てくれる他人の視線に快感に近いものを感じてしまう。『私はトランスジェンダー』宮崎留美子著、発行:ねおらいふ
私の事例や障害者の女性の事例は、「痴漢=卑劣行為」と断罪しただけで語り終えるという単純な心理ではないことに、少しでも思いを馳せていただければ幸いだ。私の講演を聞きにきている人の中には、フェミニズム運動をやっている女性やジェンダーフリー教育を実践している女性もけっこういる。そういう女性の前で、上記の話をすることがかなりきわどいことであることは百も承知である。それでも、多様な心理があるという話を私はしたかった。
「私の人生はラッキーだった」と思うかどうかという私からの問にたいして、とあるところでの、性教育に携わっている女性からは、概ね、YESとNOが半々である意見を聞くことができた。きわどい質問に、率直に答えてくださった女性の方々に感謝している。さて、冒頭に載せた女性団体で話したという「周囲の大顰蹙を買った」と書かれた件について、このような事実はない。どうしてここまでして嘘を書かなければならないのか、全く理解に苦しむ。
女性団体で、この痴漢の問題を話したかどうかは記憶は定かではないが、百歩譲って、仮に話していたとしよう。
きわどい問題であるため、必ずしも、私の真意が理解されたとはかぎらず、なかには「トンデモナイ」と非難の目で見る人もあったのかもしれない。それは納得できることだ。事実、私の著書を読んで、上記の部分について批判めいたメールをいただいたこともある。私に対して厳しく批判する人がいたとしてもそれは不思議ではない。しかし「周囲の大顰蹙を買った」となると、事実とは全くちがってくる。
女性団体での講演で、質問のときに、とくに詰問されたということもなかったし、その後、女性団体の主催者メンバーの方と、かなりの時間、飲みあって語らった。しかし、この痴漢問題に関する話題は全くでなかった。さらには、後日、この女性団体のある方が関わっている雑誌から、講演に来ておられた女性の方を通じて、8000字という長文での原稿依頼を受けたことがあった。「周囲の大顰蹙を買った」のであれば、そんなイカサマ的な人物に、どうして原稿依頼をするだろうか。この事実をもってしても、「大顰蹙」という言い分がいかに嘘であるかがわかるのだが、他人を攻撃しおとしめようとする意図を持てば、事実はどうとでも曲げられるという好例だ。
歪曲されたアナウンスを、「それはちがう」と反論するのはなかなか難しい。表に現れた事象をどのように解釈するかで事実すらちがってくるからだ。あなたの解釈と私の解釈がちがった場合、どちらが事実かの証明は極めて難しい。
ここでとりあげた事例は、「周囲の大顰蹙を買った」はずなのに、顰蹙を受けた本人に、女性団体に入っている方を通じて原稿依頼があったというような、事実のねじ曲げを否定しうる合理的な事象が存在したことで、明確に証拠をつきつけて反論できたケースにすぎない。多くのケースについてはなかなかこうはいかない。多くは、明確な反証をすることが難しく、下手をすると「いいわけをしている」とすらみなされる。
脚色された事実を流してしまうと、批判を受けた当人の事実を吹き飛ばしてしまうことにもなりかねない。他人を批判するということは、かように恐いことだと、言説を紡ぐものとしての自戒としたい。さまざまな角度からのクロスした事象の積み上げを探る努力を惜しんではならないと思う。幸い、今のところは、私への攻撃は、必ずしも人の心をつかんではいなくて逆効果を生んでいると判断している。というのは、私が攻撃を受けた場に居合わせた、現実の場での私とおつきあいがある女性から、「みんな(攻撃者に対して)怒っている」「頑張ってほしい」などの励ましの手紙をいただき、攻撃者の意図は空振りに終わっていると考えられるからだ。
しかしこれは、過去の私のあり方をも反省させられることになる。
過去には(というより、つい最近まで)、私自身も、「自分の正義」を振りかざして、これが正義の理論だとばかりに殴りかかっていったことがあった。故日高六郎さんは、『戦後思想を考える(岩波新書)』のなかで、「〈正しさ〉と〈かしこさ〉だけでは、ほんとうに人びとを納得させることはむずかしいのではないか」と書いている。〈正しさ〉と〈かしこさ〉を振りかざしてつきすすんでいった過去の自分があったのではないか。そしてそのときには、私の主張は空振りに終わっていたのではないかと、自らを反省させられる。
自分がつきすすんでいっているときには、その馬鹿さ加減はみえてこない。攻撃が自分に降りかかり、そして他の人から励まされたりすると、つきすすむ攻撃者の馬鹿さ加減がみえてくる。人間の認識とは、かように皮肉にはたらくものだ。
こんな境地になると、攻撃者への怒りも半分以下になってくる。昨日の自分をみているようで、むしろ苦笑いの気持ちにすらなる。まだまだ達観する歳でもないと思うが、気持ちにフッとゆとりが出てきたのは不思議だ。