No.51 教育とジェンダーのシンポジウム

くらしと教育をつなぐ「We」に掲載されました

 2002年11月9日、早稲田大学で「教育とジェンダー」についてのシンポジウムが開かれました。このときのシンポジウムの全容を含めて、ジェンダーと教育という特集が、月刊誌「We」にて組まれました。
 シンポジウムのパネリストは、小学校教員の吉田英子さん、早稲田大学教育学部教員の金井景子さん、そして私でした。
 著作権の関係から全文引用はできないと思いますので、私の発言部分に関わるものについてのみ引用して転載いたします。他の方の発言や、また、質問に対しての回答部分もなかなか興味ある内容だと思います。また、〈ノルウェー 男女平等の本〉を読み直すというサブタイトルかぜついた「ジェンダーフリー教育のもつ可能性」という荒川ユリ子さんの文章も、教員としてなかなか参考になります。ぜひ一読されることをおすすめいたします。
 この雑誌の問いあわせ先は、
    フェミックス Tel 03-3424-3603 東京都世田谷区池尻3−2−3サンケイグランドハイツ703


 「We」の編集後記で、私に関することが取りあげられていました。いろいろな場で、私が主張していた「トランスジェンダーの人たちの間に序列をつける」ことの問題点を、しっかりと受けとめていただいたようで、とてもうれしく読ませていただきました。トランスジェンダー内での階層構造の問題点を指摘していっている私としては、とてもうれしかったこともあり、その部分も転載したいと思います。

編・集・後・記

●組織的なジェンダーフリー教育攻撃がはじまった時期にあえて「教育とジェンダー」をテーマに掲げて中身の濃いシンポジウムを企画し、全容掲載の許可をくださった早稲田大学ジェンダー研究所の方々に心から感謝を申し上げます。

 宮崎留美子さんの『私はトランスジェンダー』(発行ねおらいふ、発売星雲社)は「ポリシーとファンタジーは別物なの」と明るく言い切って、ジェンダーフリーの授業を実践しているパートタイマー・トランスジェンダーの、面目躍如。2年ほど前にジェンダーのワークショップを開いた時、隣に座っていた中高年の男性が何か話がトンチンカンなので、どうしてこの人はここにいるのだろうと思っていたら、数日後「週一回、こういう格好をしているのでぜひ貴女にお見せしたい」と、いきなり女装で会社に現れた。ヘンな人が寄ってくるのには慣れているといえ、あれには参った。そのことを思い出して、トランスジェンダーの人たちの間に序列をつけていたかもしれない私を少し反省した。いまジェンダーフリー性=性差を消すというデマ・キャンペーンの攻撃が強まっているが、ジェンダーフリーのイメージはグレーではない、レインボーカラーなのにと言いたい。多様性というキーワードも大分手垢が付いてしまったが、宮崎さんの「バラバラ」な色が集まって1本の美しい虹になる(レインボーカラーはゲイやレズビアンの人たちのシンボルだと聞く)って表現はいいなと思う。

(このあと、文章はつづきます・・・私に関連したことではないので、このホームページでは省略いたします)


早稲田大学で「教育とジェンダー」についてのシンポジウムでの、私の報告部分について、「We」からの引用です。
※ホームページへの引用にあたって、一部分を修正しています

「女性」・男性二つの立場から見えてきたこと・・・ジェンダーと多様な性を授業で語る

 宮崎留美子です。公立高校の公民科の教員です。先程吉田先生が新任の時にお茶汲みをされたとおっしゃられていましたけれど、少なくとも私が体験してきた勤務先の高校の場合に限れば、女性の新任の先生のお茶汲みは一回もなかったし、男女混合名簿もわりと早い時代、10年くらい前に下からの盛り上がりの中で少しずつ増えてきて、行政側から男女混合名簿にせよと言ってくる前に大体70%近くの達成率があったと思います。そんなわけで、女性差別はあまり見えてこなかった。もっとも、それは私が学校では今日のような「女モード」(女性装)ではなく「男モード」で生活しているから見えてこないのかも知れません。
 吉田先生の話の中で、ジェンダーバイアスの強い環境では100%、「男で良かった」という答えが出るとありましたが、でも、世の中には0.01%ぐらいかな、あるいは0.001%かもしれないけど、どんなにジェンダーバイアスが強いところにいても、「男に生まれて嫌だった」という人たちが必ずいます。周りに男に生まれて良かったという人が多ければ、逆に男に生まれて嫌だったという人が非常に抑圧を感じるわけですね。私もその一人だったと思います。
 アンケートによると、女に生まれて良かった理由の中で「スカートを履ける」というのがある、そういえば、私も履きたいなと思っていました。「おしゃれやお化粧ができる」、本当にやりたかったです。それから、「重いもの持たずに済む」、いいですね(本当は、そういう見方はよろしくないと思うのですが、いくばくかのホンネというところで許してください)。「スポーツができなくていい」、私はとってもスポーツが苦手で、高校の時なんかボールがちっちゃければ、ちっちゃいほど嫌で(当たれば痛いですから)、だからソフトボールの体育の時なんか絶対ボールが飛んでこない所にいて、ああ、今日も飛んで来ませんようにって祈って、早く終わらないかなって。その横で、当時、女子生徒は家庭科でしたから、女子が家庭科室で料理作っているのがうらやましかったですね。女になりたいな、とそういうところでも思いました。泣き虫でしたから、弱くても笑われない性というのは私から見ればうらやましかったですね。
 ですから、男に生まれたから良かったというのではない人たちも現実にいる。別に女になりたい人たちばかりではなくて、逞しさで生きていくのが辛い人たちも現実にいます。「男らしさ」「女らしさ」から共に脱却していくということは私も大事なことだと思っています。

●教育とジェンダー/セクシュアリティ

 私は吉田先生のように昔からジェンダーの運動に携わってきたわけではなくて、ジェンダーと私自身の問題とは、長い間まったく結びついていませんでした。だって、自分のことは「変態だ」「変なオカマだ」と思ってきましたから、男女平等教育とかジェンダーフリー教育は私とは関係ないと思っていました。
 ただ、公民科(政治・経済)を教えている教師ですから、男女平等に関しては憲法の24条とかあるいは14条の中にありますから、そういったことは教えていたんですけれども、あくまでも法的な平等、仕組みとしての平等に止まっていました。
 それが97、8年頃、埼玉医大で性別適合手術、性転換手術があったあたりから、「性同一性障害」という問題がクローズアップされてきて、ああ、ひょっとしたら性同一性障害の問題というのはジェンダーと関わってくるんじゃないかとだんだん思うようになり、それから勉強しだしたんですね。
 この格好(女性装)で教壇に立ちたいんですが、なかなかそこまでは吹っ切れていませんので、昼は男モード、で、今は女性モードですから、勉強しだしたら、両方体験するとジェンダーの問題というのはストーンと落ちてくるんですね。テキストに書いてあることが頭でなく実感として分かる、そこのところが強みだと思います。
 そういった体験をもとに、性に関する授業を50分授業で3、4回程度やるようにしています。これ以上は難しいです。授業ではずっとジェンダーの視点を基盤において話をしているんですけれど、そうすると「性教育ばかりやっている」となって、保護者から校長に電話がかかってくるんですね。こんな格好をして歩いているのは皆知っていますけど、私たちのようなありようを嫌いな人が校長の所に「そういう人たちは社会は認めていないのだ」と電話がかかってくる。
 もっとも、私はいろんな場でジェンダーの問題は取り上げています。例えば、人民主権論者、フランス革命のバックボーンになった思想家ということでルソーを取り上げますが、ルソーが書いた『エミール』のなかにすごい女性差別があるので、数年前からそれを取り上げています。これはルソーの問題というより時代の限界性だと思っているんですが、そういうところで、その時代のジェンダーバイアスの問題を話すわけですね。それから経済で男女の所得格差の問題を話している。
 そんなわけで、ジェンダーをテーマにした授業は年に何回かやるようになっていますけれども、これはその一つです。政治経済の資料で、「結婚するって本当ですか?」というダ・カーポの曲の歌詞をプリントしたものを配り、

「結婚するって本当ですか
(Aあなた)に寄り添う(Bその人)は
白いエプロン、にあうでしょうか
もうすぐ(Aあなた)は遠い人
できたら(Aあなた)の胸の中、戻りたい」

 この「Aあなた」と「Bその人」の性別と判断した理由を生徒に書かせています。すると3分位でパパッと書いて、100%びしっと「Aあなた」「Bその人」の性別を間違わない。判断した理由は、「Aは寄り添われる側だから男性」「Bが女性だからAは男性」、「Bは寄り添う側だから女性」「Bは白いエプロンをしているから女性」と、理由も明確に答えてくる。作詞した人も、A男性/B女性の設定であったのは間違いないわけですが、逆に言えばそれほどにジェンダーの縛りは大きいということです。
 問題点は2つあって、1つは、寄り添う/寄り添われるという性役割、女性が白いエプロンというジェンダーイメージがあるという、ジェンダーバイアスの問題。2つ目は「Bが女性だからAが男性」という異性愛を当然視するセクシュアリティに関わる社会バイアスがあることに気づかせます。
 これまで、生物学的な性であるセックス概念で男/女を考えてきたけど、私たちの社会では性というとき、社会的・文化的な性差であるジェンダーを基準にして判断していることが多いことを説明し、そのあと、セクシュアリティのテーマに入ります。そこでは、同性愛と性同一性障害の違いを把握させると同時に、そうした人たちが異常なのではなく、性の一つのあり方であることを話していきます。
 現段階の高校教育では、ここまでの内容でも授業でとりあげるケースは多くはないでしようが、しかしまた、ここまでの内容はこういう授業をしている場合としてはオーソドックスな内容であるといえます。

 私が問題提起したいのはその先のことです。これまで教育現場では、セクシュアルマイノリティの中でもインテリないしは「人権活動家」の視点から語られた言葉だけが取り上げられてきたのではなかったか。私たちが同性愛やトランスジェンダーの問題を語るときに、そこに水商売(私自身は飲食接客業というのがいいと思いますけど)で働いている人たち、セックスワーカー、ニューハーフのヘルス、ニューハーフパブ、ゲイバー、こういった所の人たちはかなりいますが、そういった人たちの思いはほとんど教育の場に現れることはなかったのではないかということです。
 私は「売春」という言葉は嫌なので、セックスワーカーという言葉を使っていますけれども、売春婦と言われる人たちを、私たちが、フェミニズムや人権の立場に立つ人たちが、差別してこなかったでしょうか。セックスワーカーや飲食接客業に従事している人たちのことは、教育の場ではほとんど視野に入っていなかったのではないか、と思っています。
 トランスジェンダーや性同一性障害の問題を語る場合に話題になるのは、埼玉医大で性別適合手術があってからの98年以降広く知られるようになってきたケースで、女から男へのトランスセクシャル(FTM)の方だと虎井まさ衛さん、さらには、同性愛の方だと伊藤悟さんといった人たちがよく紹介されます。
※お2人とも活動自体は90年代初頭からなされていらっしゃいます
 だけどもそのときに、松原留美子さん、この人はニューハーフと言う言葉が広がったきっかけになった人で、本が出たときに、私は「ああ、まるで女じゃん、こうなりたいな」と思って買ったのですが、こういった本を生徒に紹介することがあるでしょうか。それから例えばトランスジェンダーの話をするときに、『風俗奇譚』という、昔にでていた女装について書いてある雑誌がありますが、昔から女装をしたかった人たちがいたんだという話はされてないと思います。
 それからニューハーフの話や上野の森に立つ男娼のことは全くといってよいほど学校の現場では話されていません。もちろん、対象になる生徒の年齢は考慮に入れなければならないので、小学校の段階から話せと言っているわけではありませんが、高校になればある程度そういうことも話して、いろんな人たちが共にいるということを知っていたほうがいいと思っています。
 テレビでは80年代終わりから90年代の初め、テレビ番組「笑っていいとも」の中で、いろんなニューハーフの人たちが出てきました。それで一般の人たちにも、それまで淫靡な、隠れた、胡散臭いと思っわれていたニューハーフの人たちが、「あ、いいじゃん」という感じで受け取られるようになって来たと思います。
 最近は、性同一性障害という名称で真面目な問題として捉えていこうという現在の雰囲気になっていますけど、それは何十年もの性の越境者たちの人たちの活動の積み重ねの上にあると思います。

●差別語として、言葉をなくしていくことの是非

 それからもう一つ、「オカマ」という言葉の問題があります。「人権活動家」の人たちは、「オカマ」という言葉は人を差別する言葉だ、人が傷つくから言ってはならない、と言っています。「オカマはホモセクシャルだけでなく『男らしさ』に反すると思われる男性に対する蔑称ですから、これも人間の尊厳を冒すものです。いずれにしても、人間らしく共同生活や社会生活を営もうとする人の口にする言葉ではありません」。これは性教育に一所懸命取り組まれている方が、「北海道新聞」紙上で、性にかかわるいろいろな問題を連載するなかで書かれた文章です。
 一方、『バディ』(2002年1月号)というゲイの雑誌が、「メディアが『オカマ』を使うのは許せる?」というアンケートを当事者に行ったら、「使われ方によってOK」が55.5%、「当事者が好んで使う場合のみOK」が30.4%。「『オカマ』は使っちゃダメ」が11.1%、「『オカマ』をドンドン使う」が3%です。当事者で、「オカマ」という言葉をメディアが使ってはダメというのは1割ちょっとしかいないということなのです。「人権活動家」の意識と、多くの一般の当事者の気持ちとがずれている典型的な事例だと思います。
 「オカマ」という言葉は、マスメディアなどでは、セクシャルマイノリティを侮蔑する文脈で使われることがほとんどで、この言葉によって傷つく人たちがいるという反面、ゲイやトランスジェンダーのコミュニティでは日常茶飯事に使われていますし、この言葉に誇りをもって使っている人もたくさんいます。
 私はゲイを侮蔑したり差別したり見下したりする文脈の中で使われるのは駄目だと思うし、そういう人を差別したり見下すような人間の関係性をつくらないような学校教育をやりたいと思っていますけれども、だけど例えば、私に対して、「オカマの留美ちゃん、こっちに来て一緒にお茶飲みませんか?」と言われた場合には、私は嫌じゃありません。私はオカマという言葉が差別や侮蔑から解き放たれて、そして素敵な言葉となって世の中に存在していけるようになることを願っています。
 したがって、こういった言葉は差別語だから使っては駄目ですよという授業のやり方に対して、私はノーを言いたいと思います。例えば、ゲイという言葉は差別語ではないと言われていますけど、「お前、ゲイのくせに、ふてぇ野郎だ」と言った場合は差別的なわけですね。だから、言葉ではなくて、どういった人間の関係性を作っていくかということを授業の根底に据えたいと思っています。
 「オカマ」のことを「面白そう」といった興味本位でみること、おおいにけっこう。人と人とのつながりはそこから始まり、そこから共生の関係性をつくり出していくことが可能になっていくからです
(※)。明るく楽しく「私はオカマよ」言うことができ、「オカマの留美子ちゃん」と気兼ねなく快活に呼んでくれるようなコミュニティ、こういったあり方こそが、差別が薄れ、自然体でお互いの違いを認め合い、共生しあっている社会だといえる気がします。
(※)参考「反差別運動を担う僕らは、無関心と興味本位の間に表現を紡ぐことでしか他者とつながれない(伏見憲明)」『部落解放』(2001年7月号、解放出版社)