No.34 雑誌に連載「トランスジェンダー(1)」
性教協(人間と性 教育研究協議会)が企画編集し、エイデル研究所というところから出版されている雑誌に「季刊 セクシュアリティ」というものがあります。この雑誌のNo.5(2002年1月発売)から、私が執筆する連載が始まりました。私が書いた部分を転載いたします。
トランスジェンダー 〜カムアウトして生きる〜(1) 「今の私の原点」 宮崎留美子(高等学校教諭) 「これが私なの、す・て・き」
フルメイクをして、ストッキングをはき、上着、スカートをはいて鏡の前に立ったときの例えようもない快感を感じたのは、あれは高校生のころだっただろうか。
中学時代、思春期を過ごしている男の子として、ちょっとかわいい女子生徒に甘酸っぱいトキメキを感じながらも、どちらかというと、相手の人格そのものへの憧れというよりは「あんなふうな女の子になりたい」というような潜在願望があったような気がする。自分の気持ちがいったいどんなカテゴリーに由来するのか、当時は全くわからなかった。
母親がいないときを見計らって、その衣服をこっそりと身につけたとき、鏡台の上に乗っていた口紅を唇にツーッと引いたとき、こういう立場が許される性になりたいと強く感じた。
身体はまぎれもなく男性であって、でも、心の中では、男性であることに苦痛を抱いたり違和感を持ったりする、そういった人たちのことを、MTF(Male To Female、男から女へ)のトランスジェンダーと呼ぶ。性の方向が逆の場合はFTM(Female To Male)だ。
今では、こんな「高尚な」話をしてくれる集会や本などがあるのだが、当時は、「私って変態なんだ、でもやめられない」という自己否定の毎日で悩み葛藤していた・・・と、これだけで叙述を終わればお涙頂戴なのだが、人はそんなに簡単な精神構造ではない。代償行為なのだろうが、他の部面では優越感に浸ったりする自分もあり、けっして、これまでの私の人生は暗かったなどと語るつもりはない。
大学で親元を離れてある程度自由になると、自分と同じような仲間と出会いたいという欲求が高まってきた。しかし、女性として集えるコミュニティといえば、当時はゲイバーと呼ばれていたところでゲイボーイ(今でいうニューハーフ)として働く以外にはなかった。
現在では、そういったお店で働かなくても、トランスジェンダーが集えるところはある。同じ悩みをもった人たちの自助組織も生まれている。ニューハーフになることがコミュニティに関わる条件ではなくなってきている。しかし、実はここに、ニューハーフの人たちは自分たちにとって迷惑な存在だという気持ちを持つトランスジェンダーが生まれてきているというマイナス現象の原因も潜んでいる。トランスジェンダー内の微妙な対立構造については、次回以降に話していきたい。***
「私たちってオカマなんだから、変態なんだから」
「オカマよ、どこが悪いの」
ゲイバーの先輩たちは、自分たちをこのように表現する。そういった先輩方の「仕込み」で「私」という意識がつくられていった。自分たちは「日陰花」なのかもしれないが、それでも、しっかりと生きている存在なのだという意識が、なんとはなく私の心の中に根づいていった。社会学者や人権論者の高尚な語りからではなく、社会的には偏見をもたれ差別を受けてきた現場の人たちからの影響が、私の原点だった。
好きな言葉ではないが、それでも、私にオカマという言葉が投げかけられても動じることはない。「言いたい人には言わせておけ、だって私はオカマなんだから」と、オカマである自分を肯定して生きている。このことは、私自身の精神構造が強いからではない。私自身は、自分についての他人の評判を気にしたり、批判に対して右往左往することもけっこう多い。でも、オカマという言葉を投げかけられて、どうのこうのと思い悩むことはあまりなかった。若かりしころ先輩から「仕込まれた」原点は、こんなところで私のなかに息づいている。偏見の目で見られ、ときには蔑まれてきた「そこで生きている人」から、骨の髄までたたきこまれた教えは、本から学ぶ学者先生や人権論者の理論では得られないような底力を持っているものだ。こういった人たちから学ぶことの大切さは、語り尽くしても語り尽くすことができない。***
「○○(生徒の名前)、ホモ」
日直で教室を回っていたとき、こんな紙切れが黒板の横に張られていたことがあった。イジメというほどのことではなく、多分に冗談ぽかった状況ではあったのだが、でも、それは私にとっては許せない張り紙だった。「日陰花」でも懸命に生きている先輩ニューハーフを見ていた私にとって、そういった人の存在を揶揄する行為は我慢がならないことだった。ちなみに、「ホモ」と書いてあったから許せなかったのではない。その言葉は「ゲイ」であっても「ニューハーフ」であったとしても同じだ。揶揄する行為そのものに腹が立った。
張り紙をとくに問題視する教員はいなかった。これが、明らかに差別語として認識されている言葉であれば、大問題になったであろう。しかし、ホモやゲイ、ニューハーフなどといった性にまつわる言葉は、冗談と笑いのなかで解消されてしまっていた。いろいろな生き方が認められなければならないのに、それを揶揄するなんて許せない。自分に対して投げかけられる「オカマ」の語には動じなかった私でも、偏見を冗談のなかに解消してしまう状況には、いいようのない怒りを覚えた。
このときは、私はまだカミングアウトしていなかった。大騒ぎすれば、隠していた私を疑う同僚もでてくるかもしれない。そういう不安を持ちながらも、教頭に問題の所在を語っていた自分がいた。今だったら、職員会議で大問題にさせてゆくだろうが、当時は、それが私のささやかな抵抗だった。性と人権の関わりなど考えたこともなく、そのような理論も持っていなかった当時なのだが、先輩ニューハーフの生き様から教えられた底力は、こんなところで、私を目覚めさせてくれたのだった。***
その後、1998年、埼玉医大での性転換手術があったとき、「性同一性障害を正しく理解して教えられる教師はまだまだ少ない」との新聞に書かれていたコメントを読み、教員である当事者の私こそが語っていかなければならないことなのだと、私自身のカミングアウトへとすすんでいった。そして、性の問題こそが実は人権のまっただ中の問題なのだということもはっきりと認識するようになっていった。
当時、そのコメントを述べた方は村瀬幸浩さんだったのだが、性教協の存在など知る由もない。それからの数年、性的少数者をめぐる社会状況は大きく変わっていく。そして私自身も成長していった。
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