No.32 性教協会員の方との楽しいひととき
性教協会員の方と懇談いたしました
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左端の上下の女性は性教協・長崎の方、真ん中上段の方が性教協・兵庫、下段の方は性教協・熊本、右端上段の方は性教協本部事務局長をされています(2001年12月現在)。
いずれの方も学校の先生であり、性教育で、こんなにベテランの先生方と一緒にお話しできるなんて、私はとても感激でした。
また、私自身が高校まで熊本にいましたので、熊本の方の話し方を聞くと、とても懐かしく郷里を思い起こされました。2001年12月下旬、性教協の全国幹事会が、代々木のオリンピック記念青少年センターで開かれました。その機会にと、性教協・兵庫のKさんからお誘いがあり、私もふくめて、気のあう仲間6人が集まり、小田急線参宮橋駅近くの「庄や」という居酒屋さんで語りあう機会がありました。
性と人権にかかわるいろいろな問題、差別語とされている言葉についてどのように考えるかなどの問題、その他、とても有意義な意見交流ができました。
1年前までは、性教育にたずさわっておられる方々と、こんなに普通に話せるなど考えもできませんでした。
すでにカミングアウトはしていましたので、高校の政治経済の授業のなかで、「性と人権」のことを語るなどのことはすでに行っていました。でもこれは、あくまでも、私ひとりだけで、書籍などから学び研究し理論化していっただけであって、他の教員の方との意見交流やつながりはありませんでした。
「自分は"変態"なのかも...でもやめられない、おかしいのかな」というふうに、自分を自己否定的にとらえる時期(20年ぐらい続きました)は脱していましたが、でも、教育に関わる研究会などオフィシャルな場に「宮崎留美子」の姿で行くことはできていませんでした。また、そういうことができようとは、1年前までは考えられませんでした。カミングアウトしたとはいっても、生徒に対して「私はトランスジェンダーなんだよ」と話すことであって、依然として「宮崎留美子」の活動範囲はプライベートな範囲にとどまっていたのです。
このとき、あるふとしたことがきっかけで、全日制と定時制と勤務時間帯のちがいはありましたが、前任校の同じ学校内で勤務していた養護教諭のT先生と話すようになり、自然のなりゆきで、性教協への参加をすすめられました。このときが、全国の性教育にたずさわっている方々と知りあっていく最初のスタートとなりました。
ときを前後して、「私はトランスジェンダー」(発行:ねおらいふ)という自著を出版したことも、いろいろな方と知りあう機会が増えていきました。
それからの約1年間は、中学校のときに自分の性別違和感を感じて以来の20年あまりの期間をあわせたよりはるかに飛躍した時間だったように感じます。
前述のT先生はもとより、岐阜性教協の方、兵庫性教協の方などから、たくさんのことを吸収させていただきました。そしてなによりも、もっとも大きかったのは、「宮崎留美子」としてありのままに受け入れてもらえたことです。嫌がられずに受け入れてもらえたこと、「変態」などと蔑まれずに受け入れてもらえたこと、このことが最も大きい喜びでした。12月下旬の、写真のように居酒屋さんでの飲み会は、セクシュアルマイノリティの人たちをしっかりと受けとめてくれる人たちが確実にいることを、改めて確認できたことです。
20年、いや、10年前でもいいから、そのころもしっかりとトランスジェンダーであったわけで、その時点で性教協と出会っていたら・・・などと考えたりもしますが、しかしそれは無理だったのだろうと思います。ときを経て、90年代の後半にならないと、私たちセクシュアルマイノリティの人たちが、普通に、オフィシャルに、人前に出ていくことはできなかったのでしょう。「3年B組金八先生」のドラマは、そのときどきの学校でのエポックメイキング的なことをとりあげています。現在、性同一性障害の生徒のことをとりあげるようになったということが、時代の変化をあらわしているわけですし、だから、「今」でなければ、「宮崎留美子」は、性教育などのオフィシャルな場に顔を出すことはできなかったのでしょう。10年前に、仮にそれを望んだとしても、時代が許さなかったのかもしれません。
ともあれ、上のような写真の光景は、1年前の私には想像もできなかったことなのでした。私を飛躍させていただいたみなさま方へ、「ありがとう」とお礼を述べさせていただいて、私のNo32のエッセイに代えさせていただきます。