No.31 佐倉智美さんにお会いして
関西在住の佐倉智美さんにお会いしました
佐倉智美さんといえば、男性から女性へのトランスジェンダーとして、関西ではちょっと名の知れた人。
実は、私が本を出す1年以上前に、彼女は『性同一性障害はオモシロイ』というタイトルの本を出している。一見、人を食ったようなタイトルの本である。でも、中身はいたってまじめ。性同一性障害は、別にオモシロくもなんともないのだが、そこをあえて「オモシロイ」としたところに、陰でコソコソと隠れて自分を表現するのではなく、セクシュアルマイノリティの自分を堂々と打ち出していこうという彼女なりの主張が込められているのだと思った。
このタイトルは、トランスセクシュアルと言われている人たちには不興だったようだ。「オモシロイとは何事か」というのであろう。その人たちの気持ちはわからないではないが、人にはいろいろな感性がある。多数の人とちがった感性をもっていたとしても何も悪いことはない。誰からも非難される筋合いはない。「オモシロイ」と言った彼女なりの感性を、それはそれとしてありのままに受け入れていく懐の深さを、すべての性同一性障害の人に持ってもらいたいと思うのだ。
もちろん逆も真なり。
性同一性障害なんか苦しくて苦痛でたまらないというトランスセクシュアルの人たちの気持ちを想像力を働かせることを、佐倉さん自身が行う必要はあるだろう。
要は、自分の感じ方が絶対で、それ以外の感じ方をする人は性同一性障害の資格はないなどといった、馬鹿げた排除の論理に陥らないようにすること、私たちは、このことを心がけたい。さて、佐倉さんが、所用があり東京にやってきた。2001年12月中旬のことだ。
私も彼女も、お互いに会って話してみたいということで、新宿の居酒屋さんでお会いすることになった。このとき、佐倉さんのお友だちで、FM放送のパーソナリティーをなさっているMTFのトランスジェンダーの方も一緒にお会いすることになった。某地方を中心に放送されているFM局でお仕事をなさっていて、性同一性障害の問題を、番組のなかで継続的に取りあげているという。
新宿の日本海庄やという居酒屋や別の喫茶店で、4時間ほど3人で語りあった。
男らしさや女らしさを求められることがもつ窮屈さや抑圧性など、3人の感性は合って、けっこう盛り上がった。
男、女、といった二元的分類にとらわれない、もっと「自分らしい」生き方で生きていく。たまたま、私たちは、女性というジェンダーでいることの方に心地よさを感じるところはあるのだが、だからといって、社会の性の枠組みが二元的であることをよしとしない、そんな感覚を共有しているように思うのだ。
二元的でないと考えるのはケシカランという御仁もいる。トランスセクシュアルの人にそれはよく見られる現象だ。そういう感性を悪いとは言わないが、だからといって、私たちのような感じ方をする者を、「あの人たちは性同一性障害ではない」などと、一方的に決めつけ、性同一性障害のなかで自分たちが中核であり、私たちのような者は周辺だと断定するのは愚かしい。二元的な枠で収まりたい人もいれば、私たちのような人もいる。それぞれであり、どれが中核でどれが周辺だなどと決めることほど、多様な多彩な性のあり方を、あえて狭く狭く押し込めてしまっているように受けとれるのだ。ともあれ、充実した楽しい4時間が過ぎ、またの再会を約して、それぞれの帰途についたのだった。
佐倉智美さんの著書『性同一性障害はオモシロイ』(発行:現代書館)の一節を紹介する。
そもそも、男らしく、ないしは女らしくせよと言われて、誰もがそれに合わせられるのなら、性同一性障害などという事象は存在しないことになる。やはり、個人個人の、男らしくするための資質・女らしくするための才能といったものはあるのだろう。
一般に、胎児期のホルモン分泌のはたらきで、脳の構造が男女で異なったものになるために性別による性質の違いが生じると言われている。そのためたいていは、身体的に男性である人には男らしくするための資質・才能が備わり、女性なら女らしくするほうの資質・才能を身につけていることのほうが大多数なので、それが標準、普通、もっと言えばあたりまえだと思われているわけだ。
しかし、これらは個人差があったり、例外、つまり私のように身体的には男性でも女らしくするほうがよいというような人も数多くいる。それが今まで世の中に認められていなかったことが、「性同一性障害」を障害たらしめているのである。
同時に、人びと全般を縛っている"男らしさ・女らしさ〃の中には、あくまでも社会的・文化的に作られたものに過ぎず、合理的な根拠のない、差別的なものがあることを意識し、改めていくための社会的な取り組みも重要ということになる。結局、「ジェンダーフリー」には、ふたつの意味があるのではないだろうか。
ひとつは、男から女へ、女から男へ、誰もが自分の心の性別に応じて、ジェンダー、つまり社会的・文化的性別を転換することが、ごく自然なこととして、世間から認められること。もちろん"性転換"とまでいかなくても、行動・趣味・交友関係'考え方などの面での、ちょっとした越境も含んでよい。
もうひとつは、ひとりひとりの人間を過剰な"男らしさ・女らしさ"に基づく性役割から解放し、それに縛られていた旧来の男女関係を見直し、よりよい男女のパートナーシップを新しく構築することである。これは、現在お役所レベルで推進されつつある、『男女協働社会』『男女共同参画社会』づくりの中心テーマともつながるものだ。
この両者の折り合いをつけながら、両方の実現を図っていく。おそらくそれが、めざすべきジェンダーフリー社会への道だろう。
とにもかくにも、単純な男女二分法では、もはや世の中は割り切れないのだから。