No.30 戸籍変更での2つの敵対者

戸籍変更での2つの敵対者
〜 TS/TGのみなさんへ 〜

 戸籍の性別変更。このことは、TS(※)の人たちにとっては、本当に渇望している措置なのだ。あらゆる証明書の元となる書類であるため、ここに記載されている性が、自分の本来の性であると考えているものとちがっている場合、社会生活を行っていくうえで、極めて不都合なことが多いし苦痛も大きい。
 しかし、実は、この戸籍の性別変更の要求は、決してTSだけの願いではない。全く同じような不都合や苦痛を、フルタイムのTG(※)も持っている。社会生活を行っていく上での不都合や苦痛は、衣服の下の性器の形状とは関係ない。人は裸で歩いているわけではなく、社会的にどのような性で受けとられるのかということでは、TSもTGも同じである。

(※)TS(トランスセクシュアル):外科的手術で性器を転換して反対の性に―本人にとっては本来の性に―変えようとする人。性同一性障害としてみれば、性転換手術の対象となる。

(※)狭義のTG(トランスジェンダー):医学用語というよりは当事者がつくりだした言葉。性同一性障害ではあるが、必ずしも外科的手術で性器の転換までを欲するとはかぎらないが、社会的には、身体の性とは逆の性で生きていきたいと願う人たち

 TSの人たちは、戸籍の性別変更について、裁判所に願い出たり、あるいは、変更のための法整備を訴えたりしている。しかし、実現までは、まだまだ道のりは遠い。
 ここで、ひとつ大きな問題が横たわっている。
 戸籍の性別変更を行うにあたって、性転換手術(性別再指定手術)を終えていること、つまり、性器の形状が変更されていることを(本人にとってはもともとそうであるべき性器ということになるが)性別変更の条件とするかどうかで、TSとTGとの間に、ちょっとした、いや、ことによると深刻な対立がある。
 TSの人たちは、手術を終えていることを条件にしての変更でよいと言っているのに対して、手術の有無を前提にすることには反対だというのがTGの一部の人たちの主張である。2000年12月にあったTNJ(TS/TGの自助組織のひとつ)の集会では、手術を前提とするTSの人たちに対して、TGの人たちからの強硬な反対意見が生じていた。
 TSもTG(とくにフルタイムの場合)も、戸籍の性別変更への必要度には変わりはない。なのに、TSだけが認められる制度にするのはおかしいといった声は、ある意味では「正当」な声でもある。私も、TGを自認しているため、心境もよくわかる。
 しかし、ちょっと待てと、私はここで語りたい。
 どういう運動路線にするかということで、それが現実から遊離すると、目的の実現を遅らすのみならず、ときには反動にさえなってしまうことがある。主観的な気持ちは正しいことであっても、実現のための運動論がまちがっていれば、それは誤りに転化してしまうということがある。
 現実の多くの人にとって、性の理解は、セックス(生物学的性)をもとにするところにある。ジェンダーという社会的・文化的に規定される性をもとにして性別を考える段階には、全くなっていない。ジェンダー概念が出てきて、まだわずかの時間下たっていない。何千年ものあいだ、人間は、生物学的な性、もう少し具体的にいうと、ペニスを持っているかヴァギナを持っているかで分けられてきた。
 このような、社会成員の性の理解状況で、「ペニスをもった女性」が受け入れられる余地は全くないといってよい。この点の判断が誤ると、運動は少しも進展しないばかりか、「とんでもないことを言いはじめた」とばかりに、逆にバッシングの対象ともなりかねない。1歩先を実現する運動は進歩的といえるが、10歩先を実現しようとしたら、それは夢想家の戯言とばかりに相手にされない行為になってしまう。
 TNJの集会などで、TGの人から「TGにも戸籍の性別変更を」という声が上がるのは、主観的な気持ちはよくわかるのだが、現実を見誤り、目的とする変更実現を、一層遠くに追いやる結果となる反動的な運動になってしまうことに、TGの人たちは、もっと自覚的であるべきだと思っている。
 性器の変更がないTG、「ペニスをもった女性」が、社会的に受け入れられるようになるためには、性を決める概念が、セックスからジェンダーへと、大きなパラダイムの転換が必要なのである。
 TS先行で性別変更を行うことは、当面は(というよりかなり長期になるかもしれないが)、TGは、性別変更の恩恵から排除される。しかし、生まれたときの所与の性が絶対ではないという現実はつくられたことになり、一般の人たちに、「性は変えられる」という意識転換をもたらすきっかけにはなる。性の問題にとって、これは決して小さな変化ではない。

 ただ、そのとき、今度は、戸籍の性別変更を行ったTS側の態度が問われる。
 TSの人たちが、「自分たちさえ戸籍がクリアされたら、あとは知ったことじゃない」という態度がみえみえであったとしたら、TGが反発するのはもっともである。反発するなとTS側が言ったとしたら、これは身勝手だ。
 自分たちはセクシュアルマイノリティではない、というTSの人たちもいる。自分をどう位置づけるかは主観の問題にもかかわるため、そこまではしかたがないとする。しかし、こっそりと性転換手術を行い、ひっそりと戸籍の性別変更を行う、それが実現したら、他の性同一性障害をもつ人たちがどうなろうと私は関係ない、という態度が見え隠れしたら、TGにとっては、「TSだけの逃げ切りだ、自分たちはおいていかれる」という焦燥感にかられ、性転換手術を前提にした戸籍の性別変更に反対の狼煙をあげるのは、自分たちの利益を考えれば、これは当然のことだといえるだろう。
 TSの人たちが、性別変更を、行政や政治家に働きかけていることに対して、TGの人たちが、それをくい止めようとする動きすらあるやに聞いている。性同一性障害の人の間で利害が対立し、相反する働きかけが行われているとなれば、行政や政治家が二の足を踏むのは当然である。
 TSもTGも、性同一性障害の人たち全体として、どうやったら住みやすくなるかということまで、思いをめぐらす姿勢をもち、性同一性障害の利害が相反しているわけではないという状況をつくりだすことで、戸籍の性別変更問題を大きく動かす力になってゆくのだ。
 性別変更を行い、自分だけが幸せをつかめばいいのだという意識では、結局、その幸せはいつまでもつかめない。反発する人がでてきて、制度変更がままならないというネックが生まれてくる。
 TSが先行して戸籍の性別変更を実現するためには、TGがそのことがもたらす意味を理解し、自分たちも将来は可能になるだろうという展望を抱くようにすることが必要なのだ。「手術が前提だというのはおかしい」という、それだけをとればもっともな声を、性同一性障害全体のために昇華させうる意識の発展が必要なのだ。そして、それを促すのは、今度はTS側の姿勢にかかっているといってもいい。「自分たちさえ戸籍がクリアされたら、あとは知ったことじゃない」という、自分こそは幸せになりたいという素朴な意識を、他のタイプの性同一性障害の人たちが幸せをつかむことに、自分も寄与していくのだという意識まで高めることができてはじめて、現実の運動を大きく前進させることができるのだ。

 現実を見ないで願望で主張するような一部のTGも、自分はひっそりと変更し、そのあとは知ったことじゃないと考えるような一部のTSも、ともに、戸籍の性別変更の実現を遠のかせる反動的な役割を果たしているのである。性別変更実現には、両者とも、ともに敵対者なのである。
 「戸籍変更に賛成します」というだけで支援者とと言わない。現実に即した、そして、運動を大きく発展させる戦略を持つ者だけが、戸籍の性別変更の支援者・支持者と呼べるにたる人たちであり、そうではない路線をとれば、結果として、反対的な役割を担うことになってしまうのだ。
 口先だけの「賛成」ではなく、正しい戦略を持ちうる人こそが、この問題を真に前にすすめることができる人たちなのだ。