No.28 「ブラジャーをする男たち」を読んで

 「読売ウィークリー(2001.11.4号)」に「ブラジャーをする男たち」というタイトルの記事があった。読み進めていくうちに、多様なセクシュアリティを考えるということは、こういった人たちの気持ちをも考えていくということなのだと思った。
 私の思いを、文章としてまとめたのが次のものだ。読んでいただければ幸いだ。

 「読売ウィークリー(2001.11.4号)」に「ブラジャーをする男たち」というタイトルの記事があった。この記事を読んで、はたと考えてしまった。最近、交わしてきた論争とも深くつながっているからだ。ちなみに「ブラジャーをする男たち」といっても、ゲイでもニューハーフでもないという説明書きもついている。
 この記事を読んで、性同一性障害とは関係ない話、とはいかないと、私は感じた。逆に、関係ない話としてとらえている性同一性障害の人がいたとしたら、その人の感じ方自身が問い直さなければならないとすら考えている。
 「ブラジャーをする男たち」は単なるフェティシズムであり変態だとくくってしまえるのだろうか。確かに、彼らは、ブラジャーに対しての限りない愛着を感じている人たちだろう。しかしそれを言うならば、MTFのトランスセクシュアルの人は、女性器や胸の膨らみといった肉体の一部のアイテムに限りない欲求をもっているフェティシズムとも言えるのではないか。自分の欲求が何に向けられているかのちがいでしかないとも考えられる。
 こういうと、「ブラジャーをする男たち」のような人は趣味でやっている、嗜好なのだと反論する性同一性障害者は、必ずといっていいほど存在する。自分たちと同類とはみられたくないという気持ちなのだろう。気持ちとしてはわからないではない。私だって、同類と見られるのは嫌だという心理が心の隅に潜んでいるし、それを隠すつもりはない。しかし、素朴な心理でよしとして留まるのではなく、もう一歩踏み込んで考えていくことから、多様なセクシュアリティが共生しあっていく「ぬくもりのある社会」が展望できると思うのだ。

 切手蒐集は趣味だ。ゴルフや釣りを楽しむのも趣味だ。これらのことは、何らかの理由でやめなければならないことになったとしても、ある程度の苦悩があり、また、やめることを決心する当初はつらいだろうが、やめたとしても、自分が精神的におかしくなってしまったり、常に、頭の中がそのことだけが思いめぐらされているというほどのことはない。
 「ブラジャーをする男たち」のなかにも、いろいろな趣味の人はいると思う。ブラを着けることをやめたとしても、やめた一時期は苦痛であっても、そのうちになんでもなくなってしまう人もいるだろう。そういう男性を指す場合は、趣味でやっているといってもいいかと思うが、着けていなければいてもたってもいられない、やめることはできないという男性もいるはずだ。そういう人にとっては、「ブラジャーを着けること」は決して趣味の域なんかではない。自分の人生にとっての抜きがたい「行為」なのである。MTFの性同一性障害の人が、女性として生きていこうとする「行為」との間に境界線を引くことなどできないと、私は思っている。

 性同一性障害は先天的なものであって・・・と講釈する人もいるが、「ブラジャーをする男たち」だって、医学の研究がすすめば、脳のどこかに一般の男性とちがった部位を見いだせるようになるかもしれない。「小さいころ、姉の下着に触れてみて」というような契機は、もともと先天的にあり潜在していたあり方が表に出てくるための単なるきっかけだったのかもしれないのだ。この面でも、性同一性障害が顕在化するときの論理とほとんど変わりはしない。今後、彼らのあり方は先天的だということになっていく可能性だって十分にありうることだ。
 こういった「ブラジャーをする男たち」が市民権を得ることに何の関心も寄せず、自分たち性同一性障害の人は生まれつきの病気であり障害なのであって、「彼らは趣味だ、自分たちとはちがう」というだけで、自分たちこそには性を変える手術だとか戸籍変更の法的措置を認めよと主張するだけでは、どうして世論の支持を得ることができようか。他のセクシュアリティの人たちから、「苦悩しているのはあなたたちだけではない、あなたたちだけが逃げ切らないで」と言われたとしても、何も返せる言葉がないはずだ。

 同性愛者を「趣味」だとか「嗜好」だとかと見ている人は論外だが、「ブラジャーをする男たち」のことであっても、それを単なる趣味としてみていくのではなく、そこに、セクシュアルマイノリティの同類としての苦悩を感じとっていく心を持つこと、そういった繊細さと想像力をもった心こそが、思いやりのある優しい心といえるのではないだろうか。言葉上でどんなにかわいらしいことを語っても、内実に排除の論理を抱えていれば、それは「冷たい心」でしかありえない。
 性同一性障害をもつ人は、ごくわずかの出現率であるマイノリティでしかない。同様に、変態と見られ市民権が得られていない「ブラジャーをする男たち」もやはりマイノリティなのだ。彼らのあり方がどうやったら市民権を獲得できるのか、仲間意識をもち一緒に考えていこうとする姿勢をもつことこそ、性同一性障害者にとって解決されなければならない医学的処置や戸籍変更のことを、他の人たちに理解してもらえる前提になるのではないだろうか。
 「ブラジャーをする男たち」と性同一性障害者の間にはっきりした境界はない、そそり立つ壁もない。低い垣根はあるのかもしれないが、垣根越しに握手できる隣人関係であり、お隣さんとして理解しあえることこそ、それが結局は、私たちが住み心地のよいコミュニティをつくっていくことになると、私は思っている。