No.27 性教協セミナーで感じた一幕

 性教協....人間と性 教育研究協議会の略なのだが、科学・人権・自立・共生という考え方を基本として性教育にとりくんでいる、民間の性教育団体では最大の組織である。
 訳知り顔での「押しつけの性道徳」だとか、性役割分業にもとづく男女観を批判し、ジェンダーフリー、多様なセクシュアリティの共生、セクシュアルマイノリティの人たちの人権尊重などを、教育現場で考えていこうという研究会である。そして、それらを阻む性教育のあり方を、きっちりと批判していく団体でもある。
 この研究会の方向性は、私が主張してきたことと全く一致する。そして、私がまだ考えが及んでいないことがらを啓発されたり、また、さまざまに学ばされることが多い研究会だ。同性愛者やトランスジェンダーのことも真剣に考えてくれる。昨年、私もこの組織に加入したのだが、トランスジェンダーとしての宮崎留美子を何のこだわりもなく受け入れてくださった。そして、教育研究会といわれるものに宮崎留美子として参加したのは、この性教協が最初であった。
 20年前、この組織が結成されたころは、トランスジェンダーのことは、まだ、性教育の俎上には上っていなかった。今はちがう。はっきりと、そして、人権として重要な位置づけがなされている。同性愛やトランスジェンダーについて、多様なセクシュアリティに関しての分科会も設定され、村瀬幸浩代表幹事(一橋大教員)による理論講演でも明確に言及されていた。
 今年、7月29日〜31日にかけて、横浜で20回目の大会がありセミナーが開かれた。横浜みなとみらいにあるパシフィコ横浜と神奈川学園の校舎を借り切ってのセミナーであった。1500人ぐらいの人が集まってきた。広いパシフィコ横浜の会場もたくさんの人になった。
 私は、このセミナーで、セクシュアリティについての分科会に出たのだが、ここでのコーディネーターが有名な伊藤悟さん。すこたん企画を主宰していらっしゃる方でもある。この方の著書から多くを学ばせていただいた。私とは異なるセクシュアリティであるゲイの方なのだが、私も尊敬するひとりである。分科会での伊藤悟さんのコメントをきっかけとして、いろいろと考えていった私なりの感じ方を、ここで披瀝したいと思う。
性教協のホームページは、1行目の「人間と性 教育研究協議会」のところをクリックしてほしい

 

(性教協・夏期セミナー)同性愛をめぐっての模擬授業に参加して
〜伊藤悟さんとのいくらかのすれちがい〜

 性教協の横浜セミナーで、2日目、「セクシュアリティはいろいろ」という模擬授業に参加した。このなかで、すこたん企画を主宰し、また性教協の幹事でもある伊藤悟さんのコメントに対して意見を言い、少し議論になったので、そのことを紹介したい。
 前日のトーク・トークで出られた伊藤さんは、ご自分のことを「感情的」だとおっしゃっていて、また、別のとき、伊藤さんが声を荒げている光景を見たこともあったため、ちょっとおっかなびっくりではあった。しかし、ちがった意見を持っていたときには、相手の意見を尊重しながらも自分の考えを表明することが礼儀だろうとの思いから、率直に話してみた。私の問いかけに対して、伊藤さんも冷静に応えてくださった。結果として、ちがっているように見えた伊藤さんと私の差異も、今回の問題についてはずれているわけではないこともわかった。率直に話してよかったと思っている。
 大要は次の通りだ。
 生徒に対して教員側からの働きかけがない段階で、「同性愛についてどう思うか」という問いを投げかけた場合、「気持ち悪い」「変態だ」などといった生徒の反応がでるかもしれない。教室には同性愛的傾向がある生徒がいる可能性もあるので、そういった生徒の気持ちを傷つけることになるため、そういった偏見めいた言葉がでてくるシーンをつくってはならないというのが、伊藤さんのコメントであった。
←性教協のレセプション会場にて

 コメントを聞いていておかし いと感じた。これが、私が意見を言おうと思ったきっかけだ。
 同性愛について、賢明なる性教協の会員が授業した場合に、授業後では、生徒から「気持ち悪い」などといった感想はまず出ない。これは、そう思わないようになったから出ないということも含むが、それだけではない。
 多様なセクシュアリティを認めあおうよという方向性で授業した場合、かりに、生徒の心の中で「でも、気持ち悪い」と思っていても、そのことが素直にでてこないのではないだろうか。生徒にとっては、教員はやはり「権力者」なのだ。教員の授業のねらいにそった意見を言おうとする心理は無意識的にであれ働く。私の授業でも、レポートを書かせると、教員が喜びそうな言葉をちりばめて提出してくることはよくある。
「いろんな人を大事にするべきだ」
「今まで偏見をもっていた自分が恥ずかしい」
「多様な人を認めあえる社会にするべきだ」
なんと見事な変容ぶりだろう。授業者は、自分の授業の効果に感動してしまう。でも、もしこの通りであれば、いじめなどはとっくの昔になくなっているはずだ。生徒が教員を喜ばせる目的をもってレポートを書いているわけではないが、その場だけの「やさしい許容的な気持ち」の段階でとどまっていると考えられるのだ。だから、現実に、自分の親友が、身内の者が・・・となった場合には、許容的な気持ちなど吹っ飛んでしまい「気持ち悪いよ、やめてくれよ」と簡単に言ってしまうことは普通にありえると考えてよい。
 世の中には、セクシュアルマイノリティに対して、依然として厳しい差別と偏見の現実がある。授業で、人権のことを差別・偏見のことを語っていくとしたら、現実にある「気持ち悪い」「変態だ」というホンネを出させるところから始まるのではないだろうかと、最近は考えるようになった。生徒が「心の広い」自分になったつもりだけで、差別と偏見の現実が内に隠されてしまうよりははるかにいいことだと思っている。
 もちろん、授業者は、言わせっぱなしであってはならない。そうであれば、当事者の生徒がいたとしたら、心の中に救いがたい傷を負わせたままになってしまう。言わせたあとのフォローはとても大切である。この点は、伊藤悟さんとも全く同じた。さらには、クラス日直の男女ペア、レク活動でのフォークダンスは最近はほとんどないとしても肝試しでの男女のペアなど、学校は異性愛を当然としたしくみがそこここに存在しており、異性愛が前提であることに問題意識を持つこともなく毎日を過ごしていることへの認識を授業者はしっかりと持っておく必要がある。その上に立って授業が展開されなければならないことは言うまでもない。
「どうして気持ち悪いとか変態だと思ったの?」
「逆の立場からみたら、異性に恋することを気持ち悪いと思うかもしれないよ」
「君たち自身のなかにある他の人とはちがった部分について、もし気持ち悪いと言われたら、どんなふうに思いますか?」
 そして、性のふれあいは生殖のためだけにあるのではないこと、生殖と結びつけてだけで性をとらえていることがジェンダーによる差別を生み出してきたことなどなど、セクシュアリティのこととジェンダーのこととを、しっかりと結びつけて語っていくことが、授業者には求められている。
 このような流れがあれば、たとえ当事者の生徒がいたとして、「気持ち悪い」との言葉がでてきた授業があったからといっても傷つくことはないと思われる。むしろ、自分の生き方に誇りを見いだせるきっかけにすらなっていくのではないだろうか。異性愛者には求められることなく同性愛者にだけ「強さ」を求められるのは酷だという理屈はそのとおりだが、社会のなかに現実に差別と偏見がある以上、これはしかたがない。当事者も、それは自分への宿命だとして乗り越えていく以外にないし、乗り越えようとするとき、自分自身のなかにも、やさしさや共生への思い、多様性を受け入れることの心が育っていく。自分自身が「強く」なる過程は、自分のなかにあるもろもろの差別心をひとつひとつ解消していくことと密接につながってもいる。差別をする側の方こそが哀れだと思えるようになれば、自分のなかにある差別心を大いに反省することと結びつかずにはいられない。
 伊藤さんは、セミナー初日のトーク・トークのなかで次のようなことを話された。自分が講演したあと「それでも、やはり、自分の子どもが同性愛者になったら困る」との質問を受けたとき、何のために2時間も話してきたのかとガックリとなってしまう。概ねこのようなことだった。気持ちはよくわかる。伊藤さんとはちがうセクシュアリティを持つ私ではあるが、セクシュアルマイノリティのひとりとして痛いほどよくわかる。でも・・・でもなのだ。
 伊藤さんの、同性愛への偏見や差別をなくそうよという講演を聴いた後でも、ホンネをちゃんと言ってくれることは、これは喜ばしいことではないかと思ってみたらどうだろうか。2時間かそこらの話で、人の偏見・差別がなくなっていくとしたら、同性愛者などセクシュアルマイノリティの人たちへの差別・偏見はとっくに解消されている。伊藤さんのエネルギッシュでいて心温まる話を聞いても、それでもなお簡単には解消できないのが現実なのだ。であれば、表向き、伊藤さんの話はよくわかった差別はよくないという顔をして心の中では別の気持ちが宿っているということより、2時間の講演を聴いても解消されない気持ちを吐露してくれている質問者の方が、よほど正直だしありのままの自分を出しているといえるのではないか、と思ったのだ。「ありのままに自分らしく生きる」という視点は、質問者のように、ありのままの差別心をさらけ出してくれることを評価する態度とも結びつかなければならないと思っている。うわべだけのキレイゴトで終わらせていたら、差別や偏見は内にこもり陰湿化する。
 自分の子どもが同性愛者になるのは嫌だけれども他人だったら認めるよ、というところまで進んできたのであれば、それが2時間の講演の立派な成果なのだと思ってみたらどうだろうか。質問者は自らの言葉を通じて、自分の限界をさらけ出してくれた。セクシュアルマイノリテイへの差別・偏見をなくしていこうという伊藤さんの「たたかい」は、ここまでであって、そして同時に、ここからである。話を聞いていてそんなことを思ったのだった。
 私のようなトランスジェンダーを奇異の目で見る人はまだまだたくさんいる。でも、「私はトランスジェンダー」だと主張した本を出せる時代になったではないか、そして、お化粧してスカートをはいて街を歩けるようになったではないか。着実に一歩一歩すすんできていることを感じている現在だ。

 私のような浅学の者が、そして、私などよりはるかにアクティビストである伊藤悟さんに対して、上記のような感想を書いてしまったことを申し訳なく思ってもいるのだが、今の私の思いを率直に述べることを、きっと伊藤さんは受け入れてくれると思ってしたためてみた。伊藤さんと私は、ゲイとトランスジェンダー、立場の違いはあるだろう。でも、性教協のなかでよき隣人であっていきたいと思うし、そして、アクティビストの先人として学ばせていただき尊敬していきたいと思っている一人でもある。