No.6 性同一性障害は、個性か障害か
私が、自分の職場で、この問題をとりあげたとき、ある機会に、校長と話をする機会を得ました。校長は、「性同一性障害というのは、例えて言えばエイズなんかと同じように病気なのだ」「エイズの人たちを差別してはならないのと同じように、この問題も考えている」趣旨のことを話していました。
確かに「障害」という言葉がついています。また、医療の治療対象と考えられるようにもなってきました。しかし、この問題は、とてつもなく大きな問題をはらんでいるように思っています。
というのは、「障害」と考え医療による治療対象と考えた場合には、トランスジェンダーがジェンダーフリーに寄与することはあまりなさそうに思えるからです。男としての性役割、女としての性役割−−性役割の2分化したありようを肯定し、生物学的には男なのだけれども、病気なのだから、女の性役割を果たすことを認めていこうではないか、となった場合には、性役割の2分化のありようにメスを入れることはできないのではないか、と思えるのです。けっこう、この立場をとるケースは多いように思えます。
「男が女の服装や出で立ちをするなんてとんでもない」という一般通念には変化がなく、しかし、性同一性障害というものが病気だということが、社会的に認知されるなかで、「では、そういう特別の人だったら、男が女の格好をすることを認めてあげよう」となっていくのではないかと危惧するのです。
一方、性同一性障害は「個性」であり、人にはいろいろな生き方がある、男、女の性役割を固定化して考えることに問題があるのではないか、人が「自分らしく生きる」ことを、社会全体として認めあっていくことが大切ではないか、という考え方が存在します。私なんかは、この立場をとりたいと思っています。
ジェンダーフリーの価値観にもとづくとするならぱ、生物学的な性によって役割を固定化しようとするありようが誤りなのであって、そこから解放され、「自分らしく生きる」ことを尊重するというようにならなければいけないのではないかと思うわけです。そうすると、どうしても、性同一性障害は「個性」のひとつであると考える方が自然だと思うし、マイナーな人たちと共生するということは、「病気である、治療の対象だ」と考えないことだと思っているのです。
しかし、性同一性障害の人たちは、「性別再判定手術」ということで、いわゆる性転換手術を求めているわけで、これが「病気」とならないとすると、将来においても、当然ながら、保険医療の対象にはならないということになりかねません。一重瞼より二重の方が好きといった「外見的な個性を変える」ことと同じような医療行為としてとらえてよいのかどうか、ひとつの大きなテーマだと思っています。
ジェンダーフリー(=固定的な性役割から解放されて自分らしく生きることを認めあえる社会)の方向性のなかでトランスジェンダーを考えていく...これが私が指向していることです。生物学的には男に生まれてきたならば固定的な男のジェンダーを演じなければならないとなると、そこで苦しむ人がそれなりに出てきます。そういうことがフリーになっていたとすれば、かなり精神的な解放は進むのではないでしょうか。もっとも、ジェンダーフリーの状況であっても、肉体的に反対の性でなければどうしようもないというケースの場合までは救えませんが、かなりの人数までは救済できるのではないかと考えるのです。
「ある決められた性役割を演じなければならない」ということからの解放は、かなり大きい要素があるように思います。そして、この場合には、決してトランスジェンダーの人だけではなく、多くの女性の解放にもつながるわけで、フェミニズムとの接点も見いだせると考えています。